当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
「支那事変」という名称について最初に説明しておきます。名称が4回変わっています。
北支事変:1937年当時、盧溝橋での軍事衝突
支那事変:1937年当時、上海・南京への戦線拡大に伴う変更。(日本政府公式)
日華事変:1945年以降、連合国側による名称の変更。
日中戦争:1972年以降、日中国交回復後、中国側の圧力による変更
最後通牒も宣戦布告もなかったため戦争ではなく事変といいます。これは双方ともに事変のほうが都合がよかったからです。支那と言う呼称はCHINAのフランスなどでの読み方で、日本でも漢字の当て字で採用しました。
むろん他の諸外国にも漢字の当て字は採用されており、亜米利加など今でも生きています。支那の呼称も東シナ海・インドシナ半島など、いまでも生きています。侮蔑用語などというのはとんでもない言い掛かりです。
事実上の戦争だったのは間違いありませんが、中国共産党側は日本に優位に立つためにどうしても日本と戦争して勝ったことにしたいのですね。日本と戦ったのは蒋介石の国民党勢力です。共産党は八路軍(人民解放軍の前身)を国民党指揮下に編入させて、自分たちは延安の解放区に隠れていました。そもそも公式に戦ってない。
八路軍とは戦いましたよ。日本軍はずいぶん苦戦したそうです。
呼称について詳しくは → wikipedia.org/wiki/支那事変
【若槻 禮次郎 内閣(第2次)】1931年4月~12月
~ 1931年 ~ (昭和6年)
3月 3月事件 (軍部によるクーデター計画~未遂)
9月 柳条湖事件
10月 10月事件 (軍部によるクーデター計画~未遂)
11月 満州事変
クーデター計画は軍部による政権樹立を目指すもので、政府には重い圧力になりました。
柳条湖という地は奉天の近くにあり、満州鉄道の線路が爆破された事件です(関東軍の自作自演)。
遼東半島の南部を関東州と呼び、関東軍はもともとは南満州鉄道の警備に当たっていました。
関東というのは関所の東という意味ですが、該当する関所は万里の長城の最東端にある山海関のことです。
軍部の圧力に押された若槻内閣は事変の拡大を阻止することに失敗し、12月に退陣に追い込まれます。当時の外交は幣原外交と呼ばれる協調外交でした。外務大臣の幣原喜重郎氏にちなみます。そうです。戦後に首相になった人です。
だいたいどういう人か分かりますね。軍部は幣原外交を弱腰だ軟弱だと非難しつづけ、政府と対立していました。
事件を画策したとされる板垣征四郎氏と石原莞爾氏は戦後A級戦犯として訴追対象となります。(石原氏は東条英機氏との対立と自身の病気のため不起訴・板垣氏は有罪で絞首刑)。両名とも柳条湖事件への関与は否定していましたが、花谷正元陸軍中将証言により関与が明らかとされています。(真相は不明)
【犬飼 毅 内閣 】 1931年12月~1932年5月
~ 1932年 ~ (昭和7年)
2月 血盟団事件
3月 満州国建国
5月 五・一五事件(犬飼首相暗殺) ~ 政党内閣の終焉
【斎藤 実 内閣 】 1932年5月~1934年7月
5月 挙国一致内閣のはじまり~大政翼賛会に引き継がれ敗戦まで続く
9月 日満議定書~日本国と満州国のあいだの議定書(満州国独立承認)
10月 リットン調査団の報告書発表(満州国を認めないが、日本の権益は保障する)
~ 1933年 ~ (昭和8年)
3月 国際連盟脱退 (国際連盟が満州国を承認しなかったため)
5月 塘沽協定(たんくーきょうてい)満州事変の停戦協定が成立
【岡田 啓介 内閣 】 1934年7月~1936年3月
~ 1936年 ~ (昭和11年)
2月 ニ・ニ六事件
【廣田 弘毅 内閣 】 1936年3月~1937年2月
【林 銑十郎 内閣 】 1937年2月~1937年6月
【近衛 文麿 内閣 】 1937年6月~1939年1月
廣田首相はA級戦犯として訴追され絞首刑になりますが、首相なのに軍部の暴走を止められなかったという気の毒な理由ではあります。ニ・ニ六事件鎮圧以降、軍部とりわけ陸軍の発言力はなお一層強くなりました。以降は事実上の軍部独裁政権と言っていいでしょう。軍部の同意なしには物事が決められない状況になり、軍部の意向にそわない首相はすぐ退陣に追い込まれるようになります。
~ 1937年 ~ (昭和12年)
7月 盧溝橋事件 (北京近郊での日中軍事衝突)
11月 第2次国共合作 (中国国民党と中国共産党の抗日統一戦線)
11月 第2次上海事変 (戦線が上海・南京などに拡大)
12月 南京事件 (いわゆる南京大虐殺があったとされる事件)国民党政府が首都とする南京を日本軍が上海から攻めてのが、南京事件(首都攻防戦)です。日本軍が南京に入城した際にはすでに蒋介石は上流の重慶に引き上げていました(敵前逃亡)。
このときにいわゆる南京大虐殺があったとされていますが、国民党の戦闘員は便衣兵という軍服を着用しないゲリラ兵が主だったので、その敗残兵の掃討作戦のことでしょう。
のちに日本は南京に国民党政府(日本の傀儡政権)を樹立しますので、そんな酷い大虐殺があったとは状況的にも考えにくい。首都攻防の激戦はありました。
その後、近衛内閣はドイツを仲介に国民党政府(重慶)と和平交渉をすすめましたが、国民党は条件が厳し過ぎるとして折れなかったので、1938年1月「国民党政府(重慶)を相手とせず」とし、交渉は決裂します。
近衛首相は東亜新秩序の建設に基づく三原則を発表し、それに同調した国民党のナンバー2の王兆名を重慶から南京に移し、日本による「国民党の南京政府」を1940年5月に成立させます。首相は王兆名。
以後、重慶の蒋介石の政権を「重慶政府」と呼ぶようになります。つまり、この時期(第2次世界大戦中)の中国大陸は、南京政府・重慶政府・延安の共産党解放区、に政権勢力が分裂していました。(北京は日本が占領)
盧溝橋の軍事衝突で国民党軍が撤退したあと、近郊の通州の保安隊(中国人部隊)が日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して大量虐殺を実施した通州事件をきっかけに日本軍が北京・天津を制圧していました。
(1937年7月)
《南京大虐殺はこの通州事件の写真をすり替えて捏造した説があります》画像検証は⇒ここクリック・グロ注意。
~ 1938年 ~ (昭和13年)
4月 国家総動員法公布
戦局の悪化・泥沼化・長期化にともない、日本国内では軍事費を工面するために軍事統制が強まっていきます。
1939年(昭和14年)にはもう国民徴用令が実施され、一般の国民が軍需工場などでの勤務に動員されるようになりました。
「ぜいたくは敵だ」関連の法令も順次施行されていきます。生活必需品も切符制・通帳制・配給制になっていきます。
ここまで生活を切り詰められ、働き手を兵隊に取られ、全土に空襲を受け、無条件降伏で敗戦したのです。
よくぞこんな超どん底の状態から、戦後に自主独立を回復し、経済大国に復興し、先進国になったものだと感心します。
G7(先進国首脳会議)のメンバーで欧米の国でないのは日本だけです。たいしたもんだ。(米英仏加日独伊)
1939年(昭和14年).9月には、ドイツのポーランド侵攻により、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発。
1941年(昭和16年).12月には、日本は真珠湾奇襲攻撃で米英と開戦し、世界大戦がアジア太平洋地域にも拡大します。
2014年のG7の写真:全部で9人いますけど、二人「EU」の人が入っているから。
今年のG7は6月にドイツで開催され、来年2016年.6月は日本で開催されます。
楽しみですねえ(^-^) →サミット会場、6月までに決定=「伊勢志摩」も名乗り
安倍3次内閣の集大成となり、そのあと7月に衆参W選挙、第4次内閣へです。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事:→《日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~④「大東亜戦争」 》
画像引用元
6枚目 : 詳説世界史研究(山川出版社) 473頁
8枚目 : http://www.thestar.com/news/world.html
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 430頁~445頁
↧
日本近現代史研究~⑤「満州事変と支那事変」
↧