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Channel:  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪
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日本近現代史研究~⑩最終話「江戸幕府の外交防衛政策の破綻」

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当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html

江戸時代の外交防衛政策は簡単に言えば鎖国です。三代将軍家光の時に完成しました(1641年)。島原の乱や中華王朝の明清交替と同じ時期です。家康公は朱印船などむしろ海外貿易には積極的だったと言われています。

長崎の出島を通じてオランダと清国のみ交渉を持っていました。また近隣国とは、薩摩藩島津氏を通して琉球、対馬藩宗氏を通じて李氏朝鮮、と交渉を持っており、また蝦夷地のアイヌとは松前藩を通して交渉をもっていました。

日本人の海外渡航は全面禁止です。漂流は別。

その鎖国が崩れて、江戸幕府は力による現状変更で開国させられてしまうわけですが、それまでには多くの過程と言うか経過と言うか、あります。

←手持ちの「詳説日本史研究 山川出版社」にて表にまとめてありましたので引用。

ひとつひとつ記載を拾って経過を追っていきます。

ほんとうに、欧米列強の海外植民地にされなくてよかったなあと思うところであります。
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【1778 ロシア船.厚岸に来航】

最初に日本と接触を持ったのはロシアで、シベリア開発のため日本との通商関係の樹立をめざし、日本人漂流民を保護して日本語の習得をはかった。皇帝(ツアー)エカテリーナ2世(1729~96)のもとで積極的な対外進出策をとり、その勢力は千島列島を南下し、1778(安政7)年、蝦夷地の厚岸で松前藩に通商を求め、翌年に松前藩が拒否する。

(厚岸は現在の北海道厚岸町・釧路市の東隣りに位置します。)

【1792 ロシア使節ラスクマン.根室に来航】

ロシア使節としてラスクマン(1766~1803?)が根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光太夫(1751~1828)らを日本に送還するとともに通商を求めてきた。幕府は、外交交渉は長崎以外では行わないので長崎に行くように回答し、長崎港への入港許可症である信牌(しんぱい)を与えた。

ラスクマンが交渉の場で、江戸湾に行きたいと強く要求したことが契機となって江戸湾の防備が検討され、海岸防備策が模索され始めた。

(大黒屋光大夫は皇帝エカテリーナ2世に謁見していて、ロシア語も習得していました。伊勢白子は現在の三重県鈴鹿市)

【1804 ロシア使節レザノフ.長崎に来航】

ロシア使節レザノフ(1764~1807)が、ラスクマンの持ち帰った信杯(しんぱい)を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めたが、幕府は、朝鮮・琉球・中国(清国)・オランダ以外とは新たに外交通商関係を持たないのが祖法であるとして拒否した。このときの幕府の対応は冷淡であった。

【1806 ロシア船.翌年にかけ樺太・択捉などを襲う】

レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、ロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこり、特に択捉守備兵が敗走したことから、国内は騒然とした雰囲気になった。

【1808~9 間宮林蔵、樺太・沿海州を探査】

幕府は松前・蝦夷地・樺太を直轄にして松前奉行をおいたが、樺太はその周回すら不詳のため、間宮林蔵(1775~1844)らに探査を命じた。

間宮は樺太が島であることを確認するとともに、対岸の沿海州に渡り、清国の役所であるデレンまで足を踏み入れた。

ロシアとの緊張関係はなおつづき、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを捕え、箱館ついで松前に監禁した。

ロシア側も報復として、択捉航路を開拓した淡路の商人高田屋嘉兵衛を捕えた。

1813(文化10)年にゴローウニンを釈放して、ロシアとの緊張関係は改善された。

(1812年にナポレオンがロシア遠征を行い、モスクワを占領、冬に撤退しています。)

【1808 フェートン号事件】

イギリス軍艦フェートンが長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとって薪・水・食糧を強要した。長崎奉行は責任をとって自害し、長崎警固の役を負っていた佐賀藩主は警備怠慢の責任を問われ処罰された。

幕府は、懸案であった江戸湾の防備に着手し、白河藩・会津藩にそれを命じた。

(この時期のヨーロッパはフランス革命後のナポレオン戦争の真っ最中でオランダは一時的にフランスの属国になっていました。英仏の対立は激しく、イギリスはオランダの東洋拠点を奪おうとしたのです。)

【1818 イギリス人ゴードン.浦賀に来航】

その後もイギリス船は、1817(文化14)年、1818(文政元)年、1822(文政5)年に浦賀に来航し、1824(文政7)年には常陸大津浜に上陸した捕鯨船員、および捕鯨船と交易していた漁民を水戸藩が捕えた。

【1825 幕府.異国船打払令を発す】

それまでは幕府は外国船を穏便に扱い、薪・水・食糧を与えて帰国させる方針をとっていたが、異国船打払令を出し、日本沿岸に来航する外国船を撃退するように命じた。

欧米列強の勢力が日本近海にせまっているときに、この威嚇策は、きわめて危険な政策であった。

【1837 アメリカ船モリソン号.浦賀・山川に来航】

外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し退去させた。

翌年、オランダ商館長がこの外国船がモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。

漂流民を送還してきた外国船をその来航の目的も問わずに打ち払ったことから、洋学者の渡辺崋山高野長英は、日本を取り巻く国際情勢から幕府の打ち払い政策を厳しく批判した。

(渡辺崋山・高野長英は幕府批判をしたとして幕府に厳しく処罰されました。~蛮社の獄~)

【1840~42 アヘン戦争】

アヘン戦争についての情報は、オランダ船・清国船によりいち早く日本に伝えられ、幕府に強い衝撃を与えた。

【薪水給与令】

1842(天保13)年にオランダ船によって、イギリスがアヘン戦争終結後に通商要求のため軍艦を派遣する計画がある、という情報がもたらされると、幕府は異国船打払令を緩和して薪水給与令を出し、漂着した外国船には薪・水・食糧を与えることにした。

これは、打払令により外国と戦争に危険を避けるためであった。

1844(弘化元)年、オランダ国王が幕府に親書を送り、アヘン戦争を教訓として清国の二の舞になることを回避するために開国してはどうかと勧告した。

幕府は、清国がアヘン戦争に敗れて香港を割譲し、開国を余儀なくされた情報を得ていたが、オランダ国王の勧告を拒否して鎖国体制を守ろうとした。

【フランス船 琉球に来航】

同年、フランス船が琉球に来航、翌年にはイギリス船が琉球に来航、日本や中国(清国)への寄港地として琉球に開国・通商を要求する事件がおこっている。

(ヨーロッパではナポレオンが失脚し、1814年からウィーン体制に。オランダもすぐに独立を回復)

【1846 アメリカ使節ビッドル浦賀に来航】

アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル(1783~1848)が浦賀に来航し、国交と通商を要求したが、幕府はその要求を拒絶した。

しかし、アメリカは1848年にメキシコから割譲したばかりのカリフォルニアで金鉱が発見され西部地方が急速に開けていったことを背景に、太平洋を横断して貿易することを企図し、同時に北太平洋の捕鯨業も活発になっていたので、商船や捕鯨船の寄港地が必要となり、日本への開国の要請はいっそう高まった。

【1853 アメリカ使節ペリー、浦賀に来航。ロシア使節プチャーチン長崎に来航】

アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー(1794~1858)は、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府はすでに前の年にオランダ商館長から情報を得ていたが、有効な対策を立てられなかった。

幕府は朝鮮・琉球以外の国からの国書は受領しないという従来の方針を破り、ペリーの強い態度に押されて国書を正式に受け取り、翌年に国書に回答することを約束してとりあえず日本を去らせた。

その直後に、ロシア使節プチャーチン(1803~83)も長崎に来航し、開国と国境の画定を要求した。


ペリーは翌年、軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航し、江戸湾の測量を行うなど軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫った。

幕府はその威力に屈して日米和親条約を結んだ。

(日本が欧米列強に一気に攻め込まれなかった背景には、ヨーロッパ全土を巻き込んだクリミア戦争《1953~56》・アメリカの南北戦争《1861~65》があります)
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幕末の外国からの圧力に関して、江戸幕府の場当たり的な対応にはいろいろと考えさせられるものがあります。「異国船打払令」は「自衛の手段」としてどうなんだろう?と思いもありますが、だからといって、なし崩し的に際限なく上陸を許可して薪水食糧を与えてしまっていいのか?という思いもあります。

1844年のオランダ国王による親書~「開国してはどうかと勧告」~を、「新たに外交通商関係を持たないのが祖法」とかたくなに拒否した幕府の態度は、全くもって現状認識ができておらず、もう思考停止に陥っていたとしか思えません。ペリーさんが1953年に浦賀に来航する前年に「オランダ商館長から情報を得ていた」ことも驚きです。

まったく時代遅れになってしまっている「祖法(祖先の始めた法という意味。)」にこだわるあまりに未曾有の国難に際してなんの有効な対策を打てなかったのは教訓にできそうです。むろん江戸幕府の封建体制の政治と現代の議会制民主主義による政治を単純に比較なぞ出来ないことは理解しています。また鎖国は200年以上続きましたが、今年は戦後まだ70年です。時間の経過もかなり違う。

ですが、現行で時代に合わない法は改訂されるべきでしょう。また現代社会の進むスピードは江戸時代よりもはるかに速い。第2次世界大戦後の米ソ冷戦時代が冷戦構造の崩壊で終結してからもう24年が経ち、世界情勢は冷戦時代とは異なる新時代になりました。日本国の外交も防衛も新時代に対応したものにしないといけない。

  こちらはネットでよく流れてくる画像です。力で現状変更をしようとする膨張主義の国には備えが必要です。


  ほんとうにこの地図は合っているのか?逆さにしてみましょう。

合っています!!

この国は大陸国家なのに海洋進出がしたくてしたくて堪らないのです。この国的にはなんと邪魔な日本列島であり、日本国としては備えをしないといけない。

列強国に蹂躙された清国を恥と考えているのか、明国のときの海洋進出の再興と考えているのか知りませんけど、日本国としては実に迷惑!わたしは、現状にあわない憲法9条の条文は改正すべきだと思いますし、現在国会で審議されている平和安全法制にも賛成の立場です。

「備えあれば」も「人事を尽くして」も国防に関してはまったく出来ていないのがいまの日本国であり、わたくしはたいへん憂いておりますし、こんな状態では天命を待つ覚悟も持てません。
(ある学者先生のお言葉のパクリですw)

 ~ ~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~ ~


今回の記事の画像の引用元
手持ちの詳説日本史研究・詳説日本史研究(山川出版社)より



前の記事:→《 日本近現代史研究~⑨「明治維新の日本防衛戦構築」


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