当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
第2次世界大戦後にアメリカ側の呼称「Pacific War(太平洋戦争)」を、GHQが日本に強制して定着しましたが、当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」です。また1941.12の対米英宣戦布告以降に呼称するようになりましたが、その始まりは中華民国との軍事衝突が起こった1937.7月からとしました。
中華民国の蒋介石は、日本が米英に宣戦布告後、すぐ日本に宣戦布告してきました。
【平沼 騏一郎 内閣】(1939.1~1939.8月)
5月・ノモンハン事件 8月・独ソ不可侵条約締結
中華大陸に進出し中国国民党軍と泥沼の戦争状態になっていた日本はソ連の侵攻を警戒していました。ノモンハン事件でソ連と軍事衝突したからです。なのでドイツのソ連侵攻を当てにしていたきらいがあったのですが、独ソの不可侵条約で当てが外れたためこの内閣が総辞職します。
【阿部 信行 内閣】(1939.8~1940.1月)
9月 ・ドイツのポーランド侵攻 ・第2次世界大戦の勃発
欧州の戦況がどうなるのか静観の構えとなりました。大戦不介入を声明。ちなみに首相は陸軍予備役
【米内 光政 内閣】(1940.1~1940.7月)
・ドイツ軍の電撃戦が連戦連勝 ・フランスがドイツに降伏-イタリアも参戦
フランスの降伏を受け、ドイツと同盟を結んで、フランス領インドシナ半島に進出し、中国国民党の蒋介石を援助している英・蘭のルート(援蒋ルート)を遮断する方針が陸軍から持ち上がり、内閣が倒されます。首相は海軍予備役で対米開戦には消極的でした。
【近衛 文麿 内閣(第2次~第3次)】(1940.7~1941.10月)
・1940.9月:北部インドシナ半島へ進駐
・1940.9月:日独伊三国同盟 締結
・1940.10月:大政翼賛会 発足
・1941.4月:日ソ中立条約
・1941.6月:ドイツが不可侵条約を破って独ソ戦開始
・1941.7月:南部インドシナ半島へ進駐
・1941.8月:アメリカ主導の日本への石油輸出凍結(ABCD包囲網)
・1941.9月:御前会議にて対米英開戦の方針が決定
近衛首相は大東亜共栄圏には積極的でしたが、米英開戦には消極的で、なんとか開戦を避けようとしていました。外相の松岡洋右も非開戦派でしたが、独ソの動きに翻弄されます。また近衛首相は、松岡とは別なアメリカとの交渉を駐米大使の野村吉三郎を通しても行いました。この交渉は松岡がのちに強硬に出て潰してしまい、松岡を切るために内閣総辞職-第3次内閣が組閣されます。
陸軍相の東条英機と陸軍はむろん南方進出と対米開戦推進派で、8月には海軍も開戦やむなしとの気運になっていました。ドイツとソ連ならドイツが勝つだろうと日本は思っていました。日本はずっとソ連の脅威に悩んできており、方針が「北守南進」でした。
しかしドイツのソ連侵攻により北の脅威が薄れたと判断し、フランスがドイツに降伏したことも好機ととらえ、フランス領インドシナへの進駐を加速しました。むろんドイツに加担してソ連に侵攻する北進論もありましたが、南方の資源確保が優先されました。北守が手薄に。これがのちの引き揚げ時に痛いことに。
インド・ミャンマー・マレーシアなどは英領、フィリピンは米領、インドネシアはオランダ領でしたので、日本の南部インドシナ半島進出は非常に警戒され、米英は日本の予想よりもずっと日本に対して強硬な姿勢になりました。
近衛首相は10月になっても対米交渉に望みをつないでいましたが、けっきょく総辞職してしまいます。
(首相は位の高い貴族の出身-公爵)
【東條 英機 内閣】(1941.10~1944.7月)
・1941.11月:アメリカ国務長官コーデル・ハルの提示(ハル・ノート)
・1941.12月:真珠湾攻撃-日米開戦

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また東条内閣も1944年マリアナ海戦の敗北を受けて退陣に追い込まれます。
【小磯 國昭 内閣】(1944.7~1945.4月)
陸軍大将(朝鮮総督)の小磯と海軍大将の米内と協力してつくった内閣で、米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを画策しました。が、陸軍強硬派の抵抗は大きく、またさらに戦況が悪化(フィリピン→硫黄島→沖縄)し退陣します。サイパン島・テニアン島から出撃する米軍機の本土空襲も激化しました(東京大空襲は45年3月)。
【鈴木 貫太郎 内閣】(1945.4~8月)
元・侍従長で昭和天皇の信任の篤い鈴木首相は戦争終結に向けてソ連を仲介にすることを画策しますが、ソ連はすでにヤルタ会談で対日参戦の密約を米英と交わしており、策は実りませんでした。7月末のポツダム宣言を無視したのはソ連仲介をまだ頼みの綱としていたからです。
ニ発の原爆投下(8/6.8/9)・ソ連の参戦(8/8)を受け、御前会議で鈴木首相が陛下のご裁断を仰ぐという異例の形(通常は陛下の御裁断はない)で、ポツダム宣言の受諾が決定しました。鈴木首相が過去にニ.ニ六事件で襲撃され瀕死の重傷を負ったこともここで追記しておきます。
【極東軍事裁判(東京裁判)】(1946.5月~1948.11月)

戦争の開始・計画・遂行が犯罪とされたのは第一次世界大戦後に締結されたパリ不戦条約(1928年)の影響が大きいと思いますが、戦勝国の戦争行為の正当化に利用されたきらいもあります。
ドイツの戦争犯罪人を裁くニュルンベルク裁判とこの極東軍事裁判にて世界で初めてA級戦犯は適用されました(C級も)。A(平和に対する罪)/B(通常の戦犯)/C(人道に対する罪)はあくまで罪状のカテゴライズ(分類分け)であり、罪の重さを示しているものではありません。A級戦犯はエース級戦犯ではありません!!また日本語の公文書ではABCではなくイロハです。
カテゴリーC級の人道の罪は意図としてホロコーストを裁くことを目的としており、日本人の戦争犯罪人はほとんど裁かれていません。そもそもジュネーブ条約をまだ批准しておりませんでしたし。
あと、裁判ではA級に対してBC級というカテゴライズでした。つまりBC一絡げ。
ドイツは自分たちが選挙で選んだナチス党(Nazis 国家社会主義労働者党)に全ての罪を被せ「ドイツ国民には罪はないが、ナスチを選んだ責任がある」という立場をとって講和しました。それで国際社会に通ったから文句は言わないけど、日本人には馴染まない発想。
詳しくは⇒ wikipedia.org/wiki/ドイツの戦争犯罪観
(したがってドイツは国家賠償などしていません。ナチス犯罪による犠牲者として個人への補償です。)
今回の記事で紹介してきた歴代の首相も多くがA級戦犯として訴追されました。

平沼 騏一郎氏、終身刑⇒病気仮釈放⇒直後に死去
阿部信行氏、逮捕されるが不起訴 (謎となっている)
米内光政氏、不起訴。
近衛文麿氏、戦犯容疑逮捕決定⇒出頭せず服毒自殺
東條英機氏、絞首刑
小磯國昭氏、終身刑⇒獄中にて死去
鈴木貫太郎氏、不起訴。
画像引用元:wikipedia.org/wiki/内閣総理大臣の一覧
有罪とされた罪は償われています。(自殺した人には罰を科せない)
また償ったのちに名誉の回復もされつつあります。くわしくは⇒名誉の回復
事後法での訴追だったとして裁判の無効を唱える意見もあり、インドは判決を不服としてサンフランコ講和条約会議に出席していません。のちすぐに講和(翌1952年)。
まあなんにしろ
無効であろうが有効だろうが、
平和と人道に対する戦争犯罪は
すでに罰を受け償われています。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
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画像引用元
4枚目 :ウイキペディアより
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 452頁~463頁