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Channel:  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪
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歴史教科書における‘古代日本の天皇’の記載について

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昨年のお正月に、以下の記事を書きました。

http://ameblo.jp/egiihson/entry-11127247827.html
今年は皇紀2672年ってのは恥ずかしいから公の場では言わないでほしい


というわけで今年は皇紀2673年です。記事をよんでいただければ分かりますが、わたくしは応神天皇(15代)以前の天皇の実在を否定し、応神天皇の実在も疑問視いたしました。

では?実在が定説になっている最古の天皇は誰なのか?興味があります。歴史教科書にはどう記載されているのか?引用してみましょう。


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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42頁本文

ヤマト政権の国土支配は、倭王武(雄略天皇-筆者注:在位456年 - 479年・上表文は478年)が中国の宋の皇帝に奉った上表文や、千葉県稲荷台1号墳出土鉄剣、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣、熊本県江田船山古墳出土鉄刀に刻まれた銘文などから、5世紀中ごろから後半にかけて、東国から九州にまでおよんでいたことがわかる。

とくに、稲荷山古墳出土鉄剣と江田船山古墳出土鉄刀にみえる「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」は、『宋書』夷蛮伝倭国条の倭王武(『古事記』『日本書紀』の雄略天皇)のことであり、5世紀後半がヤマト政権の画期であったことがうかがえる。

$Egihson,s BLOG

       ↑ 埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣 こちらのサイトから引用いたしました
         倭王武の上表文に関しての過去記事↓
         http://ameblo.jp/egiihson/entry-11352758769.html
         朝鮮半島古代史研究⑤~「広開土王碑と倭王武の上表文」


ヤマト政権の中枢は、大王(おおきみ)を中心として、大和・河内やその周辺を基盤とする豪族の連合体によって占められていた。

大王家は大和盆地南東部の三輪山山麓を地盤として勢力を伸ばしてきたが、5世紀にはいると、しだいに大王家内の血縁による大王位継承権を確立するようになった。


45頁本文

ここにヤマト政権が保持していた(朝鮮)半島南部の拠点は完全に失われた。この間、ヤマト政権は、王統の断絶という大きな危機を迎えた。

大伴金村(おおとものかねむら-生没年不詳)は、507年、越前から応神天皇の5世孫と称する男大迹王(おおどのおう)を迎えて即位させ(継体天皇筆者注:在位507年 - 531年)この危機を乗り切ろうとした。

しかし、継体天皇は容易に大和には入れず、527年には、ヤマト政権の新羅出兵に反発した筑紫の国造磐井が、北部九州の勢力をまとめて、反乱をおこし、新羅征討軍の渡海をさえぎるという乱が勃発するなど、ヤマト政権の支配は動揺を続けた。

この磐井の乱は、物部麁鹿火(もののべのあらかび-生没年不詳)によって、翌年ようやく鎮圧された。

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黎明期の大和朝廷における天皇についての記述はこれだけですが、どうも行間を推し量ると『応神天皇』は実在していたと考えているようです。

応神天皇が実在し、なおかつ古の偉大な王であったからこそ、5世孫に意味があったのではないでしょうか?

ただ『古事記』『日本書紀』に記載されている応神天皇の系譜・出自は非現実的なので、よく知られている応神天皇の人物像とは、かなり異なると考えたほうがよさそうです。

応神天皇の父母-仲哀天皇(14代-先帝)と神功皇后は現在の学説では架空の人物とされています。

架空の人物のことを歴史的にあれこれ語るのはやめておきますが、仲哀天皇の崩御から応神天皇の即位まで、かなりドラマチックな物語になっていたりします。

これらのエピソードは、古事記や日本書紀の編纂がはじまった頃のはなしを元ネタにアレンジして過去の歴史に織り込んでいるのでしょう。

皇極天皇(35代-重祚して斉明天皇-37代)と持統天皇(41代)に似た話があります。

古事記・日本書紀の記録を信じれば、神功皇后も、応神天皇も、100歳以上生きています。応神天皇の子である仁徳天皇(16代)も90歳以上生きてます(天皇在位は80年くらい)。

ちなみに応神天皇の父である仲哀天皇は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の第二皇子ということになってます。

飛鳥時代-藤原京時代-奈良時代-へとつづく天皇家の系譜は、継体天皇の子である欽明天皇(29代)に集約されますので、継体天皇と欽明天皇の実在は確実視していいです。もちろん異説はあります。

あと一点、取ってつけたように履中天皇からの系譜の仁賢天皇の皇女が継体天皇の皇后になって、この皇女と継体天皇の子が欽明天皇となっていますが、系譜の名のない2人の皇女は継体天皇と欽明天皇の血統の正統性(正当性?)を高める作為かと思われます。

継体天皇・欽明天皇からの系譜は現在にまで続いております。


系譜のつづき ↓


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さらに系譜のつづき ↓


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皇極天皇(35代-重祚して斉明天皇-37代)の皇子たちが、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)です。このふたりは壬申の乱で覇権を争いました。

持統天皇(鸕野讃良皇女)は天智天皇の娘で天武天皇の皇后です。

そして日本最初の国史である古事記と日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇で、皇后である持統天皇が天武の死後、この編纂事業を引き継いでいます。

この時期(650年から700年ごろ・7世紀後半)、日本における最初の強力な中央集権体制が確立しました。

為政者で最高権力者&最高権威者の天武・持統の意向が国史(日本書紀・古事記)の編纂に反映されたのは当然のことだったのではないでしょうか?

自分たちの血統が唯一無二であることを示したかったのだと思います。系譜がすべて正しいとすれば、異常なまでの血縁の濃さもそのせいでしょうか?

じっくり系図を見てください。蘇我腹(稲目→馬子→毛人→入鹿の系譜)の皇族を皇位に就かせないようにしているのが見てとれませんか?倉麻呂は本家筋ではありません。時代が下がって奈良時代になると、藤原腹の皇族を皇位に就かせない動きが見てとれます。

わたくしは研究者ではありませんので、状況証拠からあれこれ想像しているだけです。じぶんひとりで想像しているだけなら楽しいです。桓武天皇(50代)・清和天皇(56代)から桓武平氏と清和源氏に思いをはせるのもいい。

そういえば、応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳・仁徳天皇陵とされる大仙陵古墳を含む古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加されました。

宮内庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査は許可されてきませんでしたが、世界遺産に登録となれば話は別です。

ユネスコだって天皇陵と証明されたものを世界遺産にしたいだろうし、世界遺産に推す日本の人たちも天皇陵であることを証明したいでしょう。同時に応神天皇の実像も知りたくなることでしょう。もちろん天皇家の陵墓を暴くことに反対な方たちもいます。わたしは本当のことが知りたいだけです。

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応神天皇陵に立ち入り調査 築造当時の埴輪底部を確認
http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011022401000786.html
2011年2月24日

筆者注)
①日本で初めて天皇号を使用したのは推古天皇説と天武天皇説があります(現在は天武天皇説が有力)。したがって推古天皇以前の天皇に天皇号を使用するの厳密には正しくありません。

②この記事の系譜画像はすべてウイキペディアから引用してきました。ファイル名が秀逸なので転記しておきましょう。「ファイル:Emperor family tree」  天皇はロイヤル(王)ではなく、エンペラー(皇帝)なのですよ。



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