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Channel:  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪
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「篤姫」は歴史教科書に記載されているのか?

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長く引用するので結果から先に書いておきます。記載されていません。


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。


この過去記事からの続編です。
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11447949838.html
「八重の桜」は歴史教科書に記載されているのか?


幕末の記述ですので、大河ドラマ【八重の桜】のネタばれあります。ご注意ください。



















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311~312頁本文
通商条約(筆者注:1856年の日米修好通商条約、ハリスさんのやつね)の調印は開港を好まない孝明天皇の激しい怒りを招き、幕府への違勅調印の非難は高まったが、井伊直弼は一橋派を厳しく取り締まり、公家や大名とその家臣、さらには幕臣たち多数を処罰し弾圧した。

この安政の大獄では、徳川斉昭徳川慶喜・松平慶永らは蟄居・謹慎などを命じられ、越前藩士の橋本左内(1834~59)・長州藩士の吉田松陰(1830~59)・若狭小浜藩の梅田雲浜(1815~59)・頼山陽の子-三樹三郎(1825~59)らが処刑されるなど、処罰を受けた者は100名を超えた。

しかし、この厳しい弾圧に憤激し水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れ始めた。

桜田門外の変のあと、幕府の中心にすわった老中安藤信正(1819~71)は、通商条約調印により対立した朝廷との対立を関係を改善し、それによって幕府批判勢力をおさえ込み、さらに条約問題で分裂した国論を統一して幕府の権威を回復するため、朝廷(公)と幕府(武)が協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めた。

それを象徴するものとして、孝明天皇の妹和宮(1846~77)を将軍家茂の夫人に迎えることに成功したが(筆者注:和宮降嫁は1861年11月・婚礼は翌2月)、有栖川宮熾仁親王(1835~95)との結婚が決まっていたにもかかわらず降嫁させた強引な政略結婚は、尊王攘夷論者から激しく非難され、安藤は1862(文久2)年、江戸城坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士たちに襲われて傷つき、まもなく失脚した(坂下門外の変)。

幕府による公武合体策は頓挫したが、11代将軍家斉の夫人が島津重豪(しまづしげひで)(1745~1833)の子で近衛家の養女であったことなどから知られるように、朝廷・幕府の双方につながりの深い外様の薩摩藩が、独自の公武合体策の実現に動いた。

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一瞬「載ってる!!」と思ってしまいますが、この人【11代将軍家斉の夫人】は篤姫ではありません。篤姫が嫁いだのは第13代将軍・徳川家定です
(1856年)

14代将軍・徳川家茂に嫁いだ
(1862年)のが皇女和宮ですから大変まきらわしい記述になっています。



【11代将軍家斉の夫人】 広大院 ↓
 wikipedia.org/wiki/広大院



ウイキによるとこの人の最初の幼名が【篤姫】で、のちに家定に嫁いだホンモノ(?)の篤姫の命名はそれにあやかったものらしい。

教科書の記述で言えば、『独自の公武合体策の実現に動いた。』のウラに篤姫が徳川家定に嫁いだことを含んでいるといったところでしょうか?

というわけで日本の日本史教科書である「詳説日本史研究2000年度版」に【篤姫】の記載はありませんでした。

この箇所で教科書からの引用をやめてしまうと歴史の流れブッタ斬りなので、その後の記述を少しだけ引用しておきます。


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312頁本文
藩主の父島津久光は1862(文久2)年、寺田屋事件などで藩内の尊王攘夷派をおさえつつ、勅使大原重徳(1801~79)とともに江戸に赴き、幕政の改革を要求した。

幕府は薩摩藩の意向を入れて、松平慶永を政事総裁職に、徳川慶喜を将軍後見役に任命した(筆者注:安政の大獄で干されていた人たちね)。

また、京都所司代などを指揮して京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して会津藩主松平容保(1835~93)をこれに任命し(筆者注:京都守護職の指揮下で京都市中の警備にあたっていたのが新撰組ね)、あわせて参勤交代を3年に1回に緩和し、西洋式軍制の採用、安政の大獄以来の処罰者の赦免など、文久の改革と呼ばれる改革を行った。


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引用ここまで

このあとは、尊王攘夷派が主流となって、つぎに開国倒幕派が主流になって、大政奉還・王政復古となります。

「詳説日本史研究2000年度版」で、幕末の記述で女性について載っているのは【皇女和宮】と天理教創始者の【中山みき(1798~1887)】のふたりだけです。

大河ドラマに代表されるような歴史ドラマではよく女性が大活躍しますが、教科書記載での活躍は寂しいものです。

歴史ドラマを現代人の視点で描いてしまうのは、ドラマに入りやすくするためには仕方のないことかもしれませんが、あまりやり過ぎると興を削いでしまいます。女性の活躍も史実に沿った形でほどほどにしておいてもらいたいものです。




~おしまい~


次回予告 ↓

「大河ドラマのヒロインたち」は歴史教科書に記載されているのか?












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