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Channel:  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪
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朝鮮半島にある前方後円墳について

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簡単に説明すると以下画像のようなことになります。

邪馬台国の会>講演会>http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku207.htm

記事に日付がありませんが、2002年11月24日の講演です。したがって朝日新聞の記事も2002年です。韓国・慶尚南道の松鶴洞1号墳が前方後円墳であるとして紹介されたのは1983年のことらしく、当時『朝鮮半島が起源で日本に伝えてやったニダ!』とホルホルしていたことが容易に想像できます。日本のメディアで報道があったかどうかは知りません。


慶尚南道の松鶴洞古墳も全羅南道の古墳群(前方後円墳)も普通に一般の人が観光できるようですよ。行って見たいとは思いませんけど。

日本の古墳時代の末期にあたる6世紀前半期ってはっきり書いてあります。6世紀ってのは正確じゃないが

http://www.busannavi.jp/1380756928#
http://www.busannavi.jp/city/list.php?ca_id=9070b0

なんとなあく管理がずさんそうで、古墳もしょぼそうなのは気のせい?

韓国の歴史学者なんてのは結論ありきでして、古代、文化は朝鮮半島から日本へ一方的に移動したとする先入観をもってますから、ここまで調査が至っても古墳の造営者・埋葬者が倭人(日本人)とは認めたがりません。

純日本式スタイルの古墳なんだからふつうに日本人でしょうよ。そしてその地を治めていた地方の首長です。ただ、最近では埋葬者が倭人だと認める稀有な韓国人学者のかたも出てきました。


NHK:クローズアップ現代(2013年12月2日放送)より
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3440_all.html
放送で取り上げている新羅の馬具はこの記事の内容とは関係ありません。別件です。
パク教授の講演論文(日本語)→http://www.kiu.ac.jp/organization/library/

被埋葬者が倭人であることは認めていても、百済に仕えた倭の武人・官僚だと考えているのですね。残念です。まだまだ固定観念にとらわれています。武人・官僚は古墳の主人にはなれません。周辺に主人よりも小さい墳墓を造って埋葬される例はあります(陪塚)。身分の低い者たちが殉死して(させられて)一緒に埋葬の例もあったようです。

 日本列島に前方後円墳が造営されるようになったのは3世紀(200年代)中期です。

この時期の巨大古墳が箸墓古墳(はしはか)で邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓と言われています。

昨年、この古墳のある纏向遺跡(まきむく)から巨大な建造物の柱穴が100箇所以上発見されまして、最近は邪馬台国畿内説がヒートアップしています。他にもいろんな新発見ありました。

日本最大の古墳は大仙陵古墳(だいせんりょう・仁徳天皇陵)ですが、造営されたのは5世紀(400年代)前期-中期とされています。

古墳が権力者の象徴であることは疑うまでもなく、その大きさが権力の大きさに比例していることも間違いありません。

王族・豪族・地方の首長ら、権力者が造営したものでありその権力者が古墳の中心に埋葬されているのです。

この古墳時代に東北地方をのぞく日本列島はヤマト王権によって統一されたというのが定説ですから、地方の首長たちは地方自治権をもっていながらもヤマト王権に臣属していたと考えるのがふつうです。

畿内と地方の古墳の形状が同じなのは共通の墓制として同胞関係を示すものです。地方豪族同士の関係も同様です。ひとつの国家なんだという証ですね。そしてそれは朝鮮半島に存在した前方後円墳とてまた同様です。

前方後円墳がある朝鮮半島南端部は古墳の造営された時期にヤマト政権の支配するところだったということです。信憑性の高い資料もあります。(←Obokataさん?)

邪馬台国の記載で有名な魏志倭人伝の-狗邪韓国(くやかんこく)についての記載(倭と韓は陸続きで接している)、高句麗の王-広開土王の碑文、朝鮮半島王朝による最古の歴史書-三国史記、中華王朝側の歴史書にある倭の五王の記録、五人目の倭王=武の上表文、朝鮮半島南部にヤマト王権の支配がおよんでいたことが書いてあります。

6世紀に入ると日本と朝鮮半島が動乱の時代になります。国力がみんな成熟してきたんですね。


そして、512年には百済から任那4県割譲要求があり、ヤマト政権の中枢にあった大伴金村(おおとものかなむら、生没年不詳)がこの要求をあろうことか呑んじゃったんです。

←詳説日本史研究45頁より

割譲したってことは割譲する前はヤマト王権の支配下にあったわけです。

そりゃそうだ。当たり前ですね。

分かりやすいようにを入れました。

前述の釜山観光案内にあった地図を引っ張ってきて対比してみましょう。

一目瞭然ですね。

いつからかは分かりませんが、512年までここわ倭国の領土だったんです。

古墳は被葬者が在命中に造営されますので、古墳が造営された年代(5世紀後半~6世紀初頭)と一致します。

527年におこった磐井の乱を紹介してもう終わりにしましょう。 


磐井の墓とされているのが岩戸山古墳(福岡県八女市)です。もちろん前方後円墳。筑紫の国造の墓だけあって福岡県でいちばん巨大な前方後円墳(墳丘長135m)です。半島のものと築造時期が同時期です。

前述した韓国の教授の武人埋葬説の根拠はこの筑紫の兵たちのことを引用してます。
詳しくは百済王24代・東城王をクリックしてください。日本書紀の記録です。


任那割譲の時の国王は次の国王=武寧王(ぶねいおう、在位:502年 - 523年)です。


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