当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
GHQ占領下の日本は、教科書の記述では「GHQの大日本帝国解体のあれこれ」「日本国憲法」「極東軍事裁判(東京裁判)」を主体に書かれていることが多いと思いますが、この記事では内閣・国会の動きを時系列順でならべながら、アプローチしていきます。
復員と引き揚げ・物資の不足・インフレ・労働争議などの社会的混乱は割愛します。ちなみに復員は軍人、引き揚げは民間人のことを指します。
左の図にややこしいことが書いてありますが、日本の占領統治は実質アメリカ単独で権限はGHQのマッカーサーに与えられていました。日本の場合はドイツと違い、総司令部が軍政を敷いて直接統治するのではなく、日本政府を使った間接統治でした。
そうです。占領統治中も日本の内閣と国会はあったのです。
マッカーサーが300人も連れて、悠々とフィリピンから厚木に到着したのは8月30日ですが、ポツダム宣言受諾後も内閣はありました。ポツダム宣言受諾を決めた【鈴木貫太郎 内閣】のあとがこちらの内閣です。
【東久邇宮稔彦 内閣】(1945.8.17~10.4)
~ 1945年 ~
9月2日 降伏文書調印(東京湾上・戦艦ミズーリ甲板上)
9月11日 東条英機元首相らA級戦犯容疑者の逮捕
9月20日 ポツダム緊急勅令
(GHQの命令を法律の制定を待たずに日本政府が発することができる)
10月4日 人権指令
(政治犯の即時釈放・思想警察の全廃・内相.警察首脳の罷免・一切の弾圧法規の撤廃を求めた指令)
間接統治とは言いましても、実際はGHQによる統治でして、GHQの言いなりにならない東久邇宮稔彦 内閣は2カ月足らずで総辞職させられてしまいました。
【幣原喜重郎 内閣】(1945.10.9~1946.5月)
文内にある通り、幣原総理はご長老でありましたので、GHQとのハードな交渉に当たったのは外相の吉田茂氏(のちの首相)でした。が、GHQの断行改革は怒涛のごとくすすんでいきます。
10月13日 国防保安法・軍機保護法 廃止
10月15日 治安維持法 廃止
10月22日 教育改革の指令
11月6日 財閥解体の指令
11月21日 治安警察法 廃止
12月9日 農地改革の指令
12月17日 普通選挙法の公布 (満25歳以上の男子⇒満20歳以上の男女)
12月18日 衆議院解散
12月22日 労働組合法の公布
~ 1946年 ~
1月1日 天皇陛下のいわゆる人間宣言
1月4日 公職追放令
2月13日 日本国憲法のいわゆるマッカーサー草案の提示
4月10日 解散総選挙→政界再編→新体制での国会開催→新憲法(案)の審議
5月3日 極東軍事裁判(東京裁判)開廷(1946.11閉廷)
【新党ブームと政界再編】
合法政党となった「日本共産党」、結成された「日本社会党」「日本協同党」(中道)、保守系政党が再編された「日本自由党」「日本進歩党」、など新党ブームが起こります。
これらの政党によって議席が争われた戦後初・新選挙法下での衆議院選挙の結果がこちら
保守系の「日本自由党」「日本進歩党」の連立内閣が組閣されました。
「日本自由党」の党首は鳩山一郎氏でしたが、GHQの公職追放の対象者に指定され(5月3日)、外相だった吉田茂氏(日本自由党)が首相に任命されます。
【吉田茂 内閣(第1次)】(1946.5.22~1947.5月)
帝国議会(衆議院・貴族院)にて日本国憲法草案(形は憲法改正草案)の審議
6月、枢密院可決 → 8月、衆議院修正可決 → 10月、貴族院修正可決
11月3日公布 → 翌1947年5月3日施行 → また衆議院解散・政界再編
~ 1947年 ~
結成された労働組合の運動が激化、2月1日にゼネストの計画がもちあがる。
(日本共産党はある時期までは、ストライキから革命的情勢へ導けるように、ストを指導していた形跡がある)
《↑詳説日本史研究472頁の記載より引用。》
1月31日 マッカーサーが中止命令 ⇒ ニ.一 ゼネラルストライキ回避
4月20日 第1回参議院選挙
貴族院が廃止されました。貴族院議員だった吉田茂氏は↓の衆議院選挙に立候補して当選します。
4月25日 衆議院解散総選挙
この「民主党」は前の記事で述べた「日本民主党(1954年結成)」とは全く別のモノです。
「日本進歩党」全員、「日本自由党」から芦田均氏ら9人、「日本協同党→(協同民主党)→国民協同党」から25人、で結成されていて、解散時に第一党でした。
選挙の結果、第一党がなんと「社会党」になり、党委員長の片山哲氏が首相に任命され、「社会党」「民主党」「国民協同党」の連立内閣が組閣されました。
マッカーサーの思惑通りに中道の政党内閣になりましたとさ。だがあまりに左に寄り過ぎたw あとで説明。
【片山哲(社会党) 内閣】(1947.6月~1948.2月)
この画像の説明にある芦田均氏、三木武夫氏、は後に総理大臣になります。
この内閣は、与党第一党「社会党」内の左派(つまり極左)内紛のため総辞職。
かわって、連立を組んでいた「民主党」の党首-芦田均氏が内閣を組閣します。
【芦田均(民主党) 内閣】(1948.3月~1948.11月)
昭和電工疑獄事件により総辞職します。閣内に収賄の疑いで逮捕者が出たためです。ちなみに当時は大蔵官僚だった福田赳夫氏(後の首相)も逮捕されました(無罪)。のちに芦田均氏自身も逮捕されています(無罪)。
この内閣にかわる内閣は連立を組んでいた「国民協同党」の委員長:三木武夫氏(のちの首相:1974~76)を首相とするものにはならず、野党になっていた「日本自由党」の吉田茂氏が第2次吉田内閣を組閣します。経緯はややこしいので割愛。
ちなみに「日本自由党」は「民主自由党」へと再編して党名がかわってました。これだけでも十分ややこしい。
野党第一党の吉田茂党首が率いる「民主自由党」は、いろいろあって衆議院全体でも第一党になってました。
筋金入りのリベラリストと言われた芦田均さんは憲法9条に深くかかわっています。「前項の目的を達するため」という文言を入れた人なんです(芦田修正)。
彼の選挙地盤はのちに谷垣専一氏に引き継がれ、現在は谷垣貞一幹事長(前自民党総裁)に引き継がれています。やはりこの人も筋金入りのリベラリストですね。2009年の政権交代・総裁就任にも因果を感じます。
三木武夫さんは保守系左派で汚職金権とは無縁のクリーンさが売りで理想主義者でした。彼の系譜は政治家として断絶し、三木派の流れを受け継いでいる派閥もまったく別な色になりましたが、彼の強い影響を受けた奥さまは「九条の会」設立呼びかけ人のひとりです。
【吉田茂 内閣(第2次)】(1948.11月~1949.1月)
疑獄事件のあとを受けての組閣だったので、早々に衆議院は解散してまた民意を問うことに。
吉田茂首相率いる「民主自由党」が圧勝。そののち吉田内閣は第5次まで続き、長期安定政権になります。
「社会党」は、党首の片山哲氏まで落選するほどの惨敗を喫します。(48議席)
現職の野党第一党党首なのに落選!!の珍記録は、昨年12月の衆議院選挙まで更新されることはありませんでした。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事: 《日本近現代史研究~④「大東亜戦争」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~②「米ソ冷戦構造下の日本」 》
画像引用元
7.9枚目、政党公式ポスターより
上記以外: 詳説日本史研究の目次(山川出版社) 460頁~477頁
日本近現代史研究~③「GHQ占領下の日本」
日本近現代史研究~④「大東亜戦争」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
第2次世界大戦後にアメリカ側の呼称「Pacific War(太平洋戦争)」を、GHQが日本に強制して定着しましたが、当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」です。また1941.12の対米英宣戦布告以降に呼称するようになりましたが、その始まりは中華民国との軍事衝突が起こった1937.7月からとしました。
中華民国の蒋介石は、日本が米英に宣戦布告後、すぐ日本に宣戦布告してきました。
【平沼 騏一郎 内閣】(1939.1~1939.8月)
5月・ノモンハン事件 8月・独ソ不可侵条約締結
中華大陸に進出し中国国民党軍と泥沼の戦争状態になっていた日本はソ連の侵攻を警戒していました。ノモンハン事件でソ連と軍事衝突したからです。なのでドイツのソ連侵攻を当てにしていたきらいがあったのですが、独ソの不可侵条約で当てが外れたためこの内閣が総辞職します。
【阿部 信行 内閣】(1939.8~1940.1月)
9月 ・ドイツのポーランド侵攻 ・第2次世界大戦の勃発
欧州の戦況がどうなるのか静観の構えとなりました。大戦不介入を声明。ちなみに首相は陸軍予備役
【米内 光政 内閣】(1940.1~1940.7月)
・ドイツ軍の電撃戦が連戦連勝 ・フランスがドイツに降伏-イタリアも参戦
フランスの降伏を受け、ドイツと同盟を結んで、フランス領インドシナ半島に進出し、中国国民党の蒋介石を援助している英・蘭のルート(援蒋ルート)を遮断する方針が陸軍から持ち上がり、内閣が倒されます。首相は海軍予備役で対米開戦には消極的でした。
【近衛 文麿 内閣(第2次~第3次)】(1940.7~1941.10月)
・1940.9月:北部インドシナ半島へ進駐
・1940.9月:日独伊三国同盟 締結
・1940.10月:大政翼賛会 発足
・1941.4月:日ソ中立条約
・1941.6月:ドイツが不可侵条約を破って独ソ戦開始
・1941.7月:南部インドシナ半島へ進駐
・1941.8月:アメリカ主導の日本への石油輸出凍結(ABCD包囲網)
・1941.9月:御前会議にて対米英開戦の方針が決定
近衛首相は大東亜共栄圏には積極的でしたが、米英開戦には消極的で、なんとか開戦を避けようとしていました。外相の松岡洋右も非開戦派でしたが、独ソの動きに翻弄されます。また近衛首相は、松岡とは別なアメリカとの交渉を駐米大使の野村吉三郎を通しても行いました。この交渉は松岡がのちに強硬に出て潰してしまい、松岡を切るために内閣総辞職-第3次内閣が組閣されます。
陸軍相の東条英機と陸軍はむろん南方進出と対米開戦推進派で、8月には海軍も開戦やむなしとの気運になっていました。ドイツとソ連ならドイツが勝つだろうと日本は思っていました。日本はずっとソ連の脅威に悩んできており、方針が「北守南進」でした。
しかしドイツのソ連侵攻により北の脅威が薄れたと判断し、フランスがドイツに降伏したことも好機ととらえ、フランス領インドシナへの進駐を加速しました。むろんドイツに加担してソ連に侵攻する北進論もありましたが、南方の資源確保が優先されました。北守が手薄に。これがのちの引き揚げ時に痛いことに。
インド・ミャンマー・マレーシアなどは英領、フィリピンは米領、インドネシアはオランダ領でしたので、日本の南部インドシナ半島進出は非常に警戒され、米英は日本の予想よりもずっと日本に対して強硬な姿勢になりました。
近衛首相は10月になっても対米交渉に望みをつないでいましたが、けっきょく総辞職してしまいます。
(首相は位の高い貴族の出身-公爵)
【東條 英機 内閣】(1941.10~1944.7月)
・1941.11月:アメリカ国務長官コーデル・ハルの提示(ハル・ノート)
・1941.12月:真珠湾攻撃-日米開戦
1943年11月には、大東亜圏の国の政府・仮政府を帝都東京に集めて、大東亜会議も開催されましたが、戦局の悪化と日本の国力低下に伴い、これらの国でも民族的抵抗の気運が高まってきます。
←(クリックで拡大)
また東条内閣も1944年マリアナ海戦の敗北を受けて退陣に追い込まれます。
【小磯 國昭 内閣】(1944.7~1945.4月)
陸軍大将(朝鮮総督)の小磯と海軍大将の米内と協力してつくった内閣で、米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを画策しました。が、陸軍強硬派の抵抗は大きく、またさらに戦況が悪化(フィリピン→硫黄島→沖縄)し退陣します。サイパン島・テニアン島から出撃する米軍機の本土空襲も激化しました(東京大空襲は45年3月)。
【鈴木 貫太郎 内閣】(1945.4~8月)
元・侍従長で昭和天皇の信任の篤い鈴木首相は戦争終結に向けてソ連を仲介にすることを画策しますが、ソ連はすでにヤルタ会談で対日参戦の密約を米英と交わしており、策は実りませんでした。7月末のポツダム宣言を無視したのはソ連仲介をまだ頼みの綱としていたからです。
ニ発の原爆投下(8/6.8/9)・ソ連の参戦(8/8)を受け、御前会議で鈴木首相が陛下のご裁断を仰ぐという異例の形(通常は陛下の御裁断はない)で、ポツダム宣言の受諾が決定しました。鈴木首相が過去にニ.ニ六事件で襲撃され瀕死の重傷を負ったこともここで追記しておきます。
【極東軍事裁判(東京裁判)】(1946.5月~1948.11月)
A級戦犯とは、国際条約に違反して戦争を開始・計画・遂行した者のことを指し、従来戦争犯罪人とはされてきませんでした。従来の戦争犯罪とは俘虜虐待など戦争のルールをやぶったことに適用されたのです。
戦争の開始・計画・遂行が犯罪とされたのは第一次世界大戦後に締結されたパリ不戦条約(1928年)の影響が大きいと思いますが、戦勝国の戦争行為の正当化に利用されたきらいもあります。
ドイツの戦争犯罪人を裁くニュルンベルク裁判とこの極東軍事裁判にて世界で初めてA級戦犯は適用されました(C級も)。A(平和に対する罪)/B(通常の戦犯)/C(人道に対する罪)はあくまで罪状のカテゴライズ(分類分け)であり、罪の重さを示しているものではありません。A級戦犯はエース級戦犯ではありません!!また日本語の公文書ではABCではなくイロハです。
カテゴリーC級の人道の罪は意図としてホロコーストを裁くことを目的としており、日本人の戦争犯罪人はほとんど裁かれていません。そもそもジュネーブ条約をまだ批准しておりませんでしたし。
あと、裁判ではA級に対してBC級というカテゴライズでした。つまりBC一絡げ。
ドイツは自分たちが選挙で選んだナチス党(Nazis 国家社会主義労働者党)に全ての罪を被せ「ドイツ国民には罪はないが、ナスチを選んだ責任がある」という立場をとって講和しました。それで国際社会に通ったから文句は言わないけど、日本人には馴染まない発想。
詳しくは⇒ wikipedia.org/wiki/ドイツの戦争犯罪観
(したがってドイツは国家賠償などしていません。ナチス犯罪による犠牲者として個人への補償です。)
今回の記事で紹介してきた歴代の首相も多くがA級戦犯として訴追されました。
平沼 騏一郎氏、終身刑⇒病気仮釈放⇒直後に死去
阿部信行氏、逮捕されるが不起訴 (謎となっている)
米内光政氏、不起訴。
近衛文麿氏、戦犯容疑逮捕決定⇒出頭せず服毒自殺
東條英機氏、絞首刑
小磯國昭氏、終身刑⇒獄中にて死去
鈴木貫太郎氏、不起訴。
画像引用元:wikipedia.org/wiki/内閣総理大臣の一覧
有罪とされた罪は償われています。(自殺した人には罰を科せない)
また償ったのちに名誉の回復もされつつあります。くわしくは⇒名誉の回復
事後法での訴追だったとして裁判の無効を唱える意見もあり、インドは判決を不服としてサンフランコ講和条約会議に出席していません。のちすぐに講和(翌1952年)。
まあなんにしろ
無効であろうが有効だろうが、
平和と人道に対する戦争犯罪は
すでに罰を受け償われています。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事: 《日本近現代史研究~⑤「満州事変と支那事変」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~③「GHQ占領下の日本」 》
画像引用元
4枚目 :ウイキペディアより
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 452頁~463頁
日本近現代史研究~⑤「満州事変と支那事変」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
「支那事変」という名称について最初に説明しておきます。名称が4回変わっています。
北支事変:1937年当時、盧溝橋での軍事衝突
支那事変:1937年当時、上海・南京への戦線拡大に伴う変更。(日本政府公式)
日華事変:1945年以降、連合国側による名称の変更。
日中戦争:1972年以降、日中国交回復後、中国側の圧力による変更
最後通牒も宣戦布告もなかったため戦争ではなく事変といいます。これは双方ともに事変のほうが都合がよかったからです。支那と言う呼称はCHINAのフランスなどでの読み方で、日本でも漢字の当て字で採用しました。
むろん他の諸外国にも漢字の当て字は採用されており、亜米利加など今でも生きています。支那の呼称も東シナ海・インドシナ半島など、いまでも生きています。侮蔑用語などというのはとんでもない言い掛かりです。
事実上の戦争だったのは間違いありませんが、中国共産党側は日本に優位に立つためにどうしても日本と戦争して勝ったことにしたいのですね。日本と戦ったのは蒋介石の国民党勢力です。共産党は八路軍(人民解放軍の前身)を国民党指揮下に編入させて、自分たちは延安の解放区に隠れていました。そもそも公式に戦ってない。
八路軍とは戦いましたよ。日本軍はずいぶん苦戦したそうです。
呼称について詳しくは → wikipedia.org/wiki/支那事変
【若槻 禮次郎 内閣(第2次)】1931年4月~12月
~ 1931年 ~ (昭和6年)
3月 3月事件 (軍部によるクーデター計画~未遂)
9月 柳条湖事件
10月 10月事件 (軍部によるクーデター計画~未遂)
11月 満州事変
クーデター計画は軍部による政権樹立を目指すもので、政府には重い圧力になりました。
柳条湖という地は奉天の近くにあり、満州鉄道の線路が爆破された事件です(関東軍の自作自演)。
遼東半島の南部を関東州と呼び、関東軍はもともとは南満州鉄道の警備に当たっていました。
関東というのは関所の東という意味ですが、該当する関所は万里の長城の最東端にある山海関のことです。
軍部の圧力に押された若槻内閣は事変の拡大を阻止することに失敗し、12月に退陣に追い込まれます。当時の外交は幣原外交と呼ばれる協調外交でした。外務大臣の幣原喜重郎氏にちなみます。そうです。戦後に首相になった人です。
だいたいどういう人か分かりますね。軍部は幣原外交を弱腰だ軟弱だと非難しつづけ、政府と対立していました。
事件を画策したとされる板垣征四郎氏と石原莞爾氏は戦後A級戦犯として訴追対象となります。(石原氏は東条英機氏との対立と自身の病気のため不起訴・板垣氏は有罪で絞首刑)。両名とも柳条湖事件への関与は否定していましたが、花谷正元陸軍中将証言により関与が明らかとされています。(真相は不明)
【犬飼 毅 内閣 】 1931年12月~1932年5月
~ 1932年 ~ (昭和7年)
2月 血盟団事件
3月 満州国建国
5月 五・一五事件(犬飼首相暗殺) ~ 政党内閣の終焉
【斎藤 実 内閣 】 1932年5月~1934年7月
5月 挙国一致内閣のはじまり~大政翼賛会に引き継がれ敗戦まで続く
9月 日満議定書~日本国と満州国のあいだの議定書(満州国独立承認)
10月 リットン調査団の報告書発表(満州国を認めないが、日本の権益は保障する)
~ 1933年 ~ (昭和8年)
3月 国際連盟脱退 (国際連盟が満州国を承認しなかったため)
5月 塘沽協定(たんくーきょうてい)満州事変の停戦協定が成立
【岡田 啓介 内閣 】 1934年7月~1936年3月
~ 1936年 ~ (昭和11年)
2月 ニ・ニ六事件
【廣田 弘毅 内閣 】 1936年3月~1937年2月
【林 銑十郎 内閣 】 1937年2月~1937年6月
【近衛 文麿 内閣 】 1937年6月~1939年1月
廣田首相はA級戦犯として訴追され絞首刑になりますが、首相なのに軍部の暴走を止められなかったという気の毒な理由ではあります。ニ・ニ六事件鎮圧以降、軍部とりわけ陸軍の発言力はなお一層強くなりました。以降は事実上の軍部独裁政権と言っていいでしょう。軍部の同意なしには物事が決められない状況になり、軍部の意向にそわない首相はすぐ退陣に追い込まれるようになります。
~ 1937年 ~ (昭和12年)
7月 盧溝橋事件 (北京近郊での日中軍事衝突)
11月 第2次国共合作 (中国国民党と中国共産党の抗日統一戦線)
11月 第2次上海事変 (戦線が上海・南京などに拡大)
12月 南京事件 (いわゆる南京大虐殺があったとされる事件)
国民党政府が首都とする南京を日本軍が上海から攻めてのが、南京事件(首都攻防戦)です。日本軍が南京に入城した際にはすでに蒋介石は上流の重慶に引き上げていました(敵前逃亡)。
このときにいわゆる南京大虐殺があったとされていますが、国民党の戦闘員は便衣兵という軍服を着用しないゲリラ兵が主だったので、その敗残兵の掃討作戦のことでしょう。
のちに日本は南京に国民党政府(日本の傀儡政権)を樹立しますので、そんな酷い大虐殺があったとは状況的にも考えにくい。首都攻防の激戦はありました。
その後、近衛内閣はドイツを仲介に国民党政府(重慶)と和平交渉をすすめましたが、国民党は条件が厳し過ぎるとして折れなかったので、1938年1月「国民党政府(重慶)を相手とせず」とし、交渉は決裂します。
近衛首相は東亜新秩序の建設に基づく三原則を発表し、それに同調した国民党のナンバー2の王兆名を重慶から南京に移し、日本による「国民党の南京政府」を1940年5月に成立させます。首相は王兆名。
以後、重慶の蒋介石の政権を「重慶政府」と呼ぶようになります。つまり、この時期(第2次世界大戦中)の中国大陸は、南京政府・重慶政府・延安の共産党解放区、に政権勢力が分裂していました。(北京は日本が占領)
盧溝橋の軍事衝突で国民党軍が撤退したあと、近郊の通州の保安隊(中国人部隊)が日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して大量虐殺を実施した通州事件をきっかけに日本軍が北京・天津を制圧していました。
(1937年7月)
《南京大虐殺はこの通州事件の写真をすり替えて捏造した説があります》画像検証は⇒ここクリック・グロ注意。
~ 1938年 ~ (昭和13年)
4月 国家総動員法公布
戦局の悪化・泥沼化・長期化にともない、日本国内では軍事費を工面するために軍事統制が強まっていきます。
1939年(昭和14年)にはもう国民徴用令が実施され、一般の国民が軍需工場などでの勤務に動員されるようになりました。
「ぜいたくは敵だ」関連の法令も順次施行されていきます。生活必需品も切符制・通帳制・配給制になっていきます。
ここまで生活を切り詰められ、働き手を兵隊に取られ、全土に空襲を受け、無条件降伏で敗戦したのです。
よくぞこんな超どん底の状態から、戦後に自主独立を回復し、経済大国に復興し、先進国になったものだと感心します。
G7(先進国首脳会議)のメンバーで欧米の国でないのは日本だけです。たいしたもんだ。(米英仏加日独伊)
1939年(昭和14年).9月には、ドイツのポーランド侵攻により、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発。
1941年(昭和16年).12月には、日本は真珠湾奇襲攻撃で米英と開戦し、世界大戦がアジア太平洋地域にも拡大します。
2014年のG7の写真:全部で9人いますけど、二人「EU」の人が入っているから。
今年のG7は6月にドイツで開催され、来年2016年.6月は日本で開催されます。
楽しみですねえ(^-^) →サミット会場、6月までに決定=「伊勢志摩」も名乗り
安倍3次内閣の集大成となり、そのあと7月に衆参W選挙、第4次内閣へです。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事:→《日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~④「大東亜戦争」 》
画像引用元
6枚目 : 詳説世界史研究(山川出版社) 473頁
8枚目 : http://www.thestar.com/news/world.html
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 430頁~445頁
日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
日露戦争の勝利(1905年)によって明治維新以来の富国強兵はある程度目標を達し、日本は欧米と肩を並べる新興大国(東アジアの強国)になりました。が反面、欧米列強国にひどく警戒されるようにもなりました。参考→黄禍論(イエローペリル)
とりわけアメリカは露骨で、1906年以降、日本人移民を排斥するような動きにでます。
【大隈 重信 内閣(第2次)】(1914年4月~1916年10月)
~ 1914年 ~ (大正3年)
6月: 第1次世界大戦の開始
空前の大戦好景気
日本は1914(大正3)年に11億円の債務があったのに、第一次大戦後は27億円の債権国に転じました。
膨大な債務は日露戦争そのものの戦費と戦争後の軍拡・国家経営のためですが、次回の記事にて。
~ 1915年 ~ (大正4年)
1月: 対華21カ条の要求
1912年に孫文が辛亥革命を起こしたのに、なんで支那国政府の総統が袁世凱なのかというと、孫文の革命は南京政府であり、北京の清朝の実力者だった袁世凱が北京政府(中華民国)の実権を握っていたからです。
孫文の革命は北京政府の掌握にまで達せず、失意の孫文は日本に亡命(1913~1916年)します。ふたたび国民党の南京政府が出来て、蒋介石が北伐を開始するのは、1926年になってからです。中華大陸は軍閥勢力による割拠状態でした。
ニ十一カ条要求は、第1次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約でも否定されず、ドイツが持っていた山東半島の権益も日本が引き継いだので、5.4運動という激しい抗日運動が起こります。
中国人の民族自決・列強国への抵抗の矛先が日本のみに向かうようになり、蒋介石の国民党勢力の支持拡大につながりました。また欧米列強国は日本の大陸進出に強い警戒感を持つようになりました。
【寺内 正毅 内閣 】(1916年10月~1918年9月)
~ 1917年 ~ (大正6年)
3月 ロシア革命 4月 アメリカ参戦 11月 ドイツ降伏
~ 1918年 ~ (大正7年)
7月 米騒動 8月 シベリア出兵 11月 第1次世界大戦の終戦
第1次世界大戦の講和条約がパリで締結されたベルサイユ条約です。このパリ講和会議で日本は五大国のひとつになりました(英米仏伊日)。日本は世界に先駆けて人種差別撤廃の条項を国際連盟規約に盛り込むことを提案しましたが、英米豪の強い反対で実現しませんでした。
【原 敬 内閣 】(1918年9月~1921年11月) 初の平民宰相~政党内閣
~ 1919年 ~ (大正8年)
1月 パリ講和会議 6月 ベルサイユ条約締結
~ 1920年 ~ (大正9年)
2月 尼港事件 3月 戦後恐慌
【高橋 是清 内閣】(1921年11月~1922年6月)
~ 1921年 ~ (大正10年)
11月 原敬暗殺事件 12月 ワシントン会議開幕
ベルサイユ条約の体制のもと、国際連盟によって、第1次世界大戦後のアジア太平洋地域の秩序を話し合ったのが、ワシントン会議です。日本の進出を抑えるための中国大陸の権益の門戸開放と軍縮が大きなテーマでした。
【加藤 友三郎 内閣】(1922年6月~1923年8月)
~ 1922年 ~ (大正11年)
2月 ワシントン会議閉幕 7月 秘密裏に日本共産党結成
【山本 権兵衛 内閣(第2次)】(1923年9月~1924年1月)
~ 1923年 ~ (大正12年)
9月 関東大震災
【清浦 奎吾 内閣】(1924年1月~1924年6月)
~ 1924年 ~ (大正13年)
大正デモクラシー運動が高揚 アメリカで排日移民法が成立(新規移民は不可)
【加藤 高明 内閣】(1924年6月~1926年1月)
~ 1925年 ~ (大正14年)
1月 日ソ基本条約締結~国交正常化
3月 ラジオ放送の開始
普通選挙法成立(25歳以上の男子全員)
4月 治安維持法成立~社会主義・共産主義はダメ!
第1次世界大戦が民主主義(連合国)と専制主義(枢軸国)の戦いと評されたこともあり、日本でも大正デモクラシーという民主主義運動が展開されます。またロシア革命の影響で共産主義勢力も日本で産声をあげます。
普通選挙制度は大正デモクラシーの民主主義運動の反映でしたが、治安維持法は社会主義・共産主義勢力を抑え込むための施行でした。
日本の普通選挙制度は他の欧米先進国と比べてそれほど遅いものではありません。ちなみに女性参政権はニュージーランドが世界初(1893年)で、中国の普通選挙はなんちゃって普通選挙です。(共産党一党独裁のため)
~ 1926年 ~ (大正15年-昭和元年)
7月 蒋介石が北伐を開始。中国全土統一を目指し広東で挙兵。北へ進軍
12月 大正天皇崩御~昭和改元
【若槻 禮次郎 内閣(第1次)】(1926年1月~1927年4月)
~ 1927年 ~ (昭和2年)
3月 金融恐慌 4月 南京事件(1927年)からの漢口事件
これらの事件は蒋介石の北伐が開始されたことに起因します。
ワシントン体制下の九カ国条約の中国に対する内政不干渉を貫き過ぎた内閣と幣原外相は、この頃から軍部と対立するようになります。
この事件を背景にしたアメリカの映画が「砲艦サンパプロ(1966)」
←クリックで拡大します) 好きな映画(余談ですね)。
北へ進軍してくる蒋介石軍を恐れた日本は、山東半島の日本人居留区の同胞保護の目的として、三度にわたって山東半島へ出兵します。
のちの満州事変の火種がここにあります。蒋介石の北伐とのバッティングです。日本はやっとのことで日露戦争に勝ち、北の脅威を本土から遠ざける緩衝地帯として権益を手に入れた満州を手放すわけにはいかなかった。また多くの日本人が満州に入植・居留していました。この入植はアメリカが日本人移民を禁止したことと無関係ではありません。
清朝王朝が満州族だったことも皮肉です。満州は万里の長城の外であり、本来は中華の領域ではなかったのです。清朝王朝以降に中華王朝の領域だと考えるようになっていて、むろん蒋介石もそう考えていたでしょう。また蒋介石は中国人の民族主義の敵として列強国のなかで日本だけをとりわけ重視して敵愾心を煽りました。抗日は民衆を煽りやすかったのでしょうね。それは今の中華人民共和国も変わっていません。
6月 第1次山東出兵
【田中 義一 内閣】(1927年4月~1929年7月)
4月 モラトリアムで金融恐慌沈静 5月 済南事件
~ 1928年 ~ (昭和3年)
4月 第2次山東出兵 5月 第3次山東出兵
6月 張作霖爆殺事件 8月 パリ不戦条約
張作霖の爆殺は関東軍のいち参謀による独断専行で、これをきっかけに満州を軍事占領し、日本寄りの新政権をつくるつもりでした。しかし、実力者の張作霖の後を継いだ息子の張学良は中国国民党に傾倒し、満州の中国人の間では抗日の気運が一層高まり、計画は大失敗となりました。
田中内閣はこの事件(満州某重大事件)の善後措置に失敗したため総辞職します。なぜ「某」なのかというと1945年以降まで犯人名が公開されなかったからです。軍人なので軍部が秘匿してムニャムニャ◎&?!としました。
【浜口 雄幸 内閣】(1929年7月~1931年4月)
~ 1929年 ~ (昭和4年)
10月 世界恐慌~ウォール街で株価大暴落
この時代、三度の恐慌があったり米騒動や関東大震災があったりで暗い時代なのかな?と感じますが、そうではありません。資本主義が飛躍的に発展し、経済も発展、都市化と大衆化がすすんだ時代です。時代の先端をいくモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)や大正ロマンはその象徴で、日本初の地下鉄も1927年に開業しています。
ラジオ放送の開始やジャーナリズムの発展もそうです。大手の新聞四紙の発行部数は各紙100万部を超え、月刊の雑誌も大発展(100万部を超える雑誌も!)、週刊誌もこの頃から刊行されるようになりました。
~ 1930年 ~ (昭和5年)
4月 ロンドン海軍軍縮条約
この条約の米英日の大型艦保有率は(10.10.6)と米英としてはかなり譲歩したものでしたが、海軍はこれを不服として、政府の統帥権干反と激しく批判します。統帥権について、『兵力量の決定』にまで拡大解釈したものです。
統帥権の部分について大日本帝国憲法(明治憲法)に重大な欠陥があったことが、軍部暴走の一因でした。
浜口内閣は反対論を押し切って天皇陛下によるロンドン海軍軍縮条約の批准を実現しますが、これがもとで11月に東京駅で国家主義団体の青年に狙撃され重傷を負い、翌年4月に内閣総辞職。浜口氏は8月に死去します。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まりました。
ときの岡田内閣は圧力に押され『国体明徴声明』を出して、政府も天皇機関説を否定しますが、美濃部博士の著書は発禁処分になり、岡田首相自身も翌年(1936年)にニ・ニ六事件で襲撃されます。(本人は隠れていて無事)
大日本帝国の立憲主義の理念は否定され、立憲政治は骨抜きにされ、軍部の暴走に歯止めが効かなくなっていきます。欧米列強の狡猾で老練な手管に翻弄される日本の外交に日本の民衆が失望していたのは事実で、軍部は一定の世論の支持を得ていました。だからこそ軍部は好き勝手ができた。「東京朝日」「大阪朝日」「大阪毎日」「東京日日(現・毎日)」の四大新聞もさかんにこういった世論を煽りました。そのほうが部数が売れるからです。
なかでもどうしようもないのがこういった連中です。
極左と極右がそれぞれ左と右にあまりに逝き過ぎてウラで出会って手を組んでしまった。
治安維持法で検挙された人の90%が転向し、官僚などに積極的に登用されたそうです。
ナチスやソ連のように反体制を処刑・粛清しなかったのですが、扱いをあやまりましたね。
懐柔策だったのでしょうが、こんな連中を信用して政府中枢に登用すべきではなかった。
『先の大戦について「深い反省」』
というのは、第1次大戦後のワシントン体制からの経過を包括的に捉えて、対米英開戦に踏み切らざるを得ない状況になってしまったことについて、省みることが重要であり、ある特定の文言を加えるか否かなんてのはまったくもってナンセンスな論議です。
初めてアメリカ合衆国議会の上下両院合同会議で行われる日本国首相の演説も、夏に発表される戦後70年談話も、過去の深い反省にもとづき、現代国際社会での日本の立場を明確にした、未来志向な内容になることをおおいに期待しております。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次回は「日露戦争」を見ていきましょう。
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑤「満州事変と支那事変」 》
画像引用元
7枚目: 映画公式ポスター(日本版)
13枚目: テレビ朝日のニュース映像
14枚目《今年のバンドン会議(アジアアフリカ会議)の演説》演説全文はここをクリック(外務省公式)
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 398頁~436頁
日本近現代史研究~インターミッション
メディアが切り取った映像で恣意的な報道をするので、
ノーカット版映像と原稿全文のリンクをまとめました。
画像もいろいろ貼りました。
当然ですが、すべて無料です。会員登録も必要ありません。
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)
60周年記念首脳会議
における安倍内閣総理大臣スピーチ
公式はこちら☟
kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0422speech
全文(総理官邸:公式)☟
kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0422speech.html
日米共同記者会見-平成27年4月28日(現地時間)
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg11688
全文(外務省:公式)☟
mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001148.html
米国連邦議会上下両院合同会議演説
-平成27年4月29日(現地時間)-
nettv.gov-online.go.jp/prg/prg11689
全文(外務省:公式)☟
(和文)http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4
(英文)http://www.mofa.go.jp/na/na1/us/page4e
この歴史的な総理演説について英語力を辛辣に批判しているメデイア勢力や国会議員がいるようだが、アメリカ連邦議会の議員のおおかたの受け止めとしては、『日本訛り(Japolish)のごつい英語だったが、彼の言葉は我々の心を強く打った。素晴らしい演説だった。』 でしょうね。 言語なんて伝わればいんだよっ!!
そうでなければ12回以上のスタンディングオベ―ションが起きるわけがない。
こんな握手攻めや満面の笑顔もない。
米政府も米議会も総理がガチっと抑えて今後の動き☟どうなりますでしょうか?
6月:G7先進国首脳会議(ドイツ)
6月:パク大統領訪米
安倍総理の「戦後70年談話」発表
9月:習主席訪米
G7での総理の立ち位置は中心に近付くでしょうね。一昨年・昨年は大外だった。
あの「最低でも県外」「腹案がある」「トラスト・ミー」の頃の冷えた日米関係から、
よくぞここまで関係回復できたとほっとしています。5年半前ですか。長かったよ。
~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~
日本近現代史研究~⑦「日露戦争とポーツマス条約」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
日清戦争は日本の圧勝でしたが、遼東半島の領有をめぐって三国干渉で日本が露仏独と対立しまして、それが日露戦争の簡単な要因です。次回記事でまた詳しく。また、日露戦争に至る経緯を語る際に日清戦争後の清国について書いておく必要があると判断しました。なるべく簡潔に書いておきます。
【戊戌の政変】
清国を改革して近代化する動きが若き清国皇帝・光緒帝(1858~1927)のもとで起こりましたが、西太后(1835~1908)ら保守派のクーデターによってつぶされました。光緒帝は幽閉され、変法派(改革派)の多くは日本など海外に亡命しました。
【義和団事件(北清事変)】
山東省で結社された宗教的武術的秘密結社である義和団が清国民衆の熱狂的支持を受け民衆とともに暴動をおこしました。スローガンに「扶清滅洋(清国を扶け西洋人を撃滅する)」を掲げた暴動は拡大し、首都北京に大挙して入城し(1900年6月)、義和団と暴徒は誰彼となく外国人を襲い列国公使館を軒並み包囲しました。
そして実は、西太后ら保守派の清国政府が陰に日向に義和団と暴徒を煽っていました。(筆者注:)なんか現代にかぶる(ーー゛))
【北京議定書】
欧米列強は清国在留同胞の保護を名目に軍隊を派遣し、義和団の乱を徹底的に鎮圧しました。
これを8カ国共同出兵といい連合軍のはしりとなりました。
(画像、左より、英・米・露・英領インド・独・仏・オーストリア=ハンガリー・伊・日の兵士)
1901年清国は8カ国と北京議定書を締結し、莫大な賠償金(9億8千両)を支払う羽目になり、また国内に列強国守備兵が常駐することを認めさせられました(北京駐兵権)。
北京・紫禁城内の連合軍 ☟
ロシアは出兵していた10数万の軍隊を撤退させず満州にとどめ事実上満州を軍事占領。そりゃ日本ゲキ怒だよ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【日露戦争】
ロシアに対しては日英同盟協約を後ろ盾に満州からの撤兵を強く要求し、ロシアも1902(明治35)年4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束した。しかし、そののちこの協定は実行されず、ロシアはかえって韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めた。
日本国内では、対露強硬論の気運が高まっていたが、とくに大きな役割を果たしたのは新聞であった。
ロシアが清国との協定で、満州からの第2次撤兵を約束した期限は1903年10月8日であったが、実行されなかったため、『大阪毎日新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『二六時報』など発行部数が一日10万部前後の有力新聞は、ほとんど対露開戦論一色となった。
そして、対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを激しく弾劾しはじめた。
(注)
①ラジオの日本初放送は1925年でこの当時ラジオ放送はない。メディア媒体は新聞などの出版物と口コミのみ
②新聞のやり玉となった反開戦派の代表格は桂太郎首相と伊藤博文元老であった。
日本側の主たる狙いは、満州を日本の利益範囲外と認めるかわりに、韓国における日本の軍事的・政治的優先権を確立することにあったが、ロシア側はこれを全く認めず、日露交渉はまったく行き詰った。
日本は1904(明治37)年2月、元老と政府・軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定し、日本海軍の旅順攻略と陸軍部隊の仁川上陸によって、日露戦争を開始した。
強国ロシアとの戦いは、日本にとって文字通り国家と国民の命運を賭けた戦いであった。
日本政府(第1次桂内閣)は開戦にあたって、この戦争がきわめて苦しい戦いになることを予測した。
そして、その巨額の戦費にあてるため、高橋是清(1854~1936)日銀副総裁を派遣してアメリカや同盟国のイギリスで外国債を募集した。
また、金子堅太郎を特使としてアメリカへ派遣し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(1858~1919)に和平の仲介を依頼した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日露戦争の戦費は約17億円で当時の国家予算歳出分の数年分にあたります。そのうち8億円が英米で募集した外国債でしたが、実はロシアも外国債を発行して戦費に充てていました。
開戦当時は世界の大部分の国が日本の敗北を予想していたので、日本の外債発行はロシアに比べて不利な条件でしか発行できず、募集もままなりませんでした。ところが戦局が日本優勢になってくると状況が逆転しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
立憲政治を実現し国内改革に成功していた日本は、国民の支持のもとに総力をあげて戦うことができたが、専制政治(ロマノフ王朝)がおこなわていたロシアは、国内でこれに反対する運動が高まり、十分な戦力を発揮できなかった。
そのため戦況は、軍事的には日本の優勢のうちに進展した。
陸軍は遼陽・沙河の会戦でロシア軍を撃破し、数カ月の激しい攻防戦の末、1905(明治38)年1月にはロシアの東アジア最大の海軍基地である旅順をおとしいれ、さらに3月には奉天の会戦で勝利を収めた。
また、海軍も同年5月の日本海海戦で東郷平八郎(1847~1934)の指揮する連合艦隊が、ヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた。
(右画像)
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮を執る東郷大将
当時、ロシア国内では、ツアー(ロシア皇帝)の政府の圧政に対する民衆の反対運動が激化しており、1905年1月には、首都ペテルブルグで血の日曜日事件がおこり、各地でストライキが頻発するなど、情勢ははなはだ険悪であった。
しかし、日本も軍事的勝利は得たが、兵器・弾薬・兵員の補充が困難となり、戦費調達もおぼつかなくなって、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていた。
そこで、日本海海戦の勝利の直後、日本政府は正式にアメリカ大統領に和平の仲介を依頼した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
血の日曜日事件は、のちにロシア第一革命の発端とされました。映画にもなった‘戦艦ポチョムキンの叛乱’がこの年の6月。↑クリックで説明文にとびます。
バルチック艦隊が出港したのは1904年10月15日です。これより遅れると港が凍って出港できなかったんですかね?w さて、この当時ヨーロッパからアジアに至る貿易航路の制海権は大英帝国がほぼ掌握していました。日英同盟協約に基づき英国は動きます。
ジブラルタルは現在でもイギリス領でイギリス軍が常駐しています。
のちに「3C」と呼ばれるカイロ(スエズ運河)・ケープタウン(喜望峰)・カルカッタ(インド)もイギリス領でした。
シンガポールとマラッカ海峡もイギリス領でした。
海上封鎖はしていません。
軽量級の軍船はジブラルタルからスエズを通っています。ただし航路上にあまた有るイギリス領植民地の港には一切寄港できなくしたのです。これは強烈に効きました。
当時のロシアの友好国だったフランス領の寄港地は少なく、バルチック艦隊は補給・修理・休息もままならぬまま、半年以上もかかって日本海に到達しました。艦も兵も疲弊しきっていたのです。
むろん、このことによって、連合艦隊の偉業ならびに東郷平八郎元帥の名声に傷がつくようなものではありません。大国ロシアの屈強な艦隊に開国から50年しか経過していない新興国日本の海軍が圧倒的勝利をおさめたことは世界を震撼させました。
日露戦争に日本が勝利したことは、日本国内および世界中に多大な影響を及ぼしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【日露講和会議】
かねがね満州に対するロシアの独占的支配を警戒し、日露両国の勢力均衡を望んでいたアメリカ大統領セオドア=ルーズベルトは、日本政府の意向を受けてこの機会に和平の斡旋に乗り出し、ロシアもこれに応じた。
アメリカのポーツマスで開かれた日露講和会議は、ロシアが強い態度に出たため難航したが、1905年9月、日本側首席小室寿太郎外相とロシア側首席全権ヴィッテ(Vitte,1849~1915)との間で、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。
これによって日本はロシアに、
(1)韓国に対するいっさいの指導・保護・監督権の承認
(2)旅順・大連の租借権と長春・旅順間の鉄道およびその付属の権利の譲渡
(3)北緯50度以南の樺太の割譲
(4)沿海州とカムチャッカの漁業権の承認
などを認めさせ、また満州(日本の租借地などを除く)からの両軍の撤兵、清国に対する機会均等なども取り決められた。
こうして、日本は約110万の兵力を動員し、死傷者20万を越すという大きな損害を出しながら、ようやく日露戦争に勝利を収めた。
【日比谷焼打ち事件】
しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。
東京では河野広中ら反政府系政治家や有力新聞①の呼びかけもあって、講和条約調印の当日、「屈辱的講和反対・戦争継続」を叫ぶ民衆が、政府高官邸・警察署交番・講和を支持した政府系新聞社・キリスト教会・などを襲撃したり、放火したりした。
(画像:1905年9月5日、東京日比谷公園でひらかれた講和条約反対の決起集会)
いわゆる日比谷焼打ち事件である。政府は戒厳令を発し、軍隊を出動させてこの暴動を鎮圧し、講和条約批准に持ち込んだ。
①『東京朝日新聞』『大阪毎日新聞』『万朝報』などの有力新聞は、日露講和条約の条件が明らかになると、いっせいにその条件が日本にとって不十分であるとし、「屈辱的講和反対」「戦争継続」を主張するキャンペーンを展開し、なかには桂首相・小村外相を‘探露’(ロシアのスパイ)と非難する記事を載せた新聞もあるほどであった。
日露戦争は、世界列強の複雑な利害関係を背景として行われただけに、国際政局に大きな影響をおよぼし、とくに東アジアにおける国際関係は大きく変動した。
東アジアの片隅にある有色人種の小国日本が、予想に反して白人の大国ロシアとの戦いに勝利を収めたことは、白人不敗神話を打ち破って世界に衝撃を与え、中国・インド・トルコ・フィンランドなどの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今も昔も新聞メディアというのはあらぬ方向に大衆を煽るものなのですね。気をつけましょう。この当時まだラジオ放送はありません。マスメディアと言えば新聞などの出版刊行物しかなく、拡散は口コミでした。(日本でのラジオ初放送は1925年)
極東アジアでの南下が挫折したロシアは、またしてもヨーロッパでの南下に力を入れ始めます。そしてトルコで民族運動が高まったことにより、オスマントルコ帝国の力が更に削がれました。この2点は第一次世界大戦の遠因になっています。
英国留学中のネル―少年(インド初代首相・当時16歳)は日露戦争の日本の勝利に大きな感銘を受け、日本に関する新聞記事切り抜き、また、日本についての英文の著作を好んで読みふけったそうです。
フィンランドは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15)で、スウェーデン王国の領土からロシア帝国の領土になってました。フィンランドの独立はロシア革命後(1917)で、ロシアへの対抗から第二次世界大戦では枢軸国側でした。あまり知られていません。
日露戦争の勝利によって、日本は欧米列強に認められ、列強国の仲間入りを果たしました。そのことを如実に現わしているのが、明治維新から日本が取り組んできた『不平等条約の改正』の実現です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【条約改正】
第2次伊藤内閣になって、外相陸奥宗光(1844~97)のもとで、改正交渉はようやく本格的に軌道に乗った。
イギリスは、シベリア鉄道敷設を進めていたロシアが東アジアに勢力を拡張することを警戒し、それと対抗する必要があった。
そこで憲法と国会をはじめ近代的諸制度を取り入れ、国力を増大つつある日本の東アジアにおける国際的地位を重くみて条約改正に応じた。
1894(明治27)年7月、日英通商航海条約の締結である。
(日清戦争の開始と同年同月です)
その内容は領事裁判制度の撤廃・最恵国条款の相互化のほか、関税については日本の国定税率を認めるが、重要品目の税率は片務的協定税率を残すというもので、この点ではまだ不十分であった。
イギリスに続いて欧米各国とも新しい通商航海条約が結ばれ、いずれも1899(明治32)年に発効した。
1911(明治44)年、改正条約の満期を迎え、外相小村寿太郎(1855~1911)は再び交渉を始めたが、日本が日露戦争の勝利を経て国際的地位を高めているだけに列国の反対もなく、関税自主権の完全回復が実現した。
(画像上:陸奥宗光 画像下:小村寿太郎/日本が不平等条約を結んでいたのは、英米仏露蘭)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
列強国の仲間入りを果たした日本に対して、欧米列強国の日本に対するアタリは強くなっていきます。さながら『おい日本!これからは本気出して対応にあたるからな!!』です。
日本列島防衛線の構築という初期の目的は達成されましたが、欧米列強国のあいだの仁義無用の熾烈な争いに日本は踏み込んでいかざるを得なくなってしまいました。そういう時代だったのです。
この時代、白人国家以外で独立の体裁を守っていたのは、日本・タイ・トルコ・イラン・エチオピア・リベリアだけです。イランに関してはのちに体裁だけで半植民地化されます。またエチオピアもイタリアに侵略されてます。
(リベリアは特殊な例で、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国されました。)
~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
6枚目/外務省公式HP
7枚目/http://heiwa.yomitan.jp/4/3207.html
そのほかはウイキペディアより引用しました。
今回の記事は『朝鮮半島史』の記事の焼き直しです。
次の記事:→《 日本近現代史研究~⑧「日清戦争と下関条約そして三国干渉と日英同盟」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」》
日本近現代史研究~⑧「日清戦争と下関条約そして三国干渉と日英同盟」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
清国に対して、日本は1871(明治4)年、日清修好条規・通称章程などを結んだ。同年、台湾に漂着した琉球漁民が原住民に殺される事件がおこった。
清国は台湾を「化外の地(けがいのち)」として、その責任を取ろうとしなかったので、事件の処理をめぐって交渉は難航し、1874(明治7)年、日本政府は西郷従道(つぐみち・1843~1902)のもとに軍隊を台湾に派遣した(台湾出兵)。
筆者:注) 化外の地 ↓
この事後処理のために、大久保利通が全権として清国と交渉し、イギリス公使ウェールズの調停もあって、清国は日本の出兵を義挙として認め、償金50万両を支払って解決した。
17世紀初頭以来、琉球は薩摩藩(島津氏)の支配下にあったが、名目上は清国にも属し朝貢するという両属関係にあった。
明治政府は琉球を日本の領土とする方針を定め、1872(明治5)年には琉球藩をおき、琉球王尚泰(しょうたい・1845~1901)を藩王として華族に列し、ついで1874(明治12)年には軍隊を派遣して廃藩置県を断行し、沖縄県を設置した(琉球処分)。
清国は琉球に対する宗主権を主張してこれに強く抗議し、前アメリカ大統領グラント(Grant,1822~85)は、宮古・八重山の先島諸島を沖縄県から分離して清国領とする調停(先島分島案)を示したが、清国側はこれを認めなかった。
その後も紛争は続いたが、日清戦争における日本の勝利によって、琉球帰属問題は事実上、日本の主張通りに解決した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前アメリカ大統領グラントの調停案は日本側もダメですね。「宮古・八重山の先島諸島を沖縄県から分離して清国領とする」。この調停が成功して且つ日清戦争がなければ、尖閣諸島は?・・・・、想像するのはやめておきますw
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【下関条約】
1895(明治28)年4月、伊藤博文首相・陸奥宗光外相が全権委任となり、清国全権李鴻章とのあいだに日清間の講和条約が調印された。これが下関条約である。この条約によって清国は日本に対して
①朝鮮半島の独立の承認
②台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲
③賠償金2億両(日本円で約3憶一千万)の支払い
④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港・租界での治外法権などの承認
などを約束した。こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第一歩を踏み出した。
それまで‘眠れる獅子’といわれていた清国が、名もない東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼んだ。欧米列強はこぞって中国再分割に乗り出した。
【三国干渉】
なかでも、南満州へ進出の機会をうかがっていたロシアは、日本の進出を警戒して、下関条約が結ばれるや、ただちに、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するように日本政府へ申し入れてきた。
これがいわゆる三国干渉である。
日本はまだ、これらの大国に対抗できるだけの実力がなかったので、政府はやむなく清国から3000万両(約5000万円)の償金を追加して、遼東半島の返還に応じることにした。
国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉が叫ばれるようになり、政府もそうした気運のなかで、軍備拡張と国力の充実をはかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三国干渉に当時の日本人はみんなビックリしたでしょうね。「それはないだろう?」と。欧州諸国はふだん仲が悪くても利害があえば簡単に結託します。ヨーロッパの国同士は戦争ばっかりしてますから、平気でこのくらい狡猾に寝首を掻いてきます。
英仏はロシア嫌いですが、英仏も長年のライバル関係にあり、フランスは、せっかく掘ったスエズ運河を英国資本に横取りされた腹いせに、ロシアのシベリア鉄道に投資したのです。国民性も天邪鬼と揶揄されますし。
ドイツとイタリアは訳あって統一国家の形成がおくれました。明治維新と同じ時期です。英仏らのように植民地経営に乗り出したいのですが、もう残っているところがあまりない。ドイツは山東半島に進出を企てていましたから、対岸・目と鼻の先の遼東半島日本領有は困ったというわけです。
ロシアは三国干渉に応じた清国に対し、お礼にシベリア鉄道を満州経由にしました。このとき露清密約が締結(1896)されてます。この密約は日本に対する軍事同盟の性格を持っていました。
この頃、自国大陸にフロンティアがなくなったアメリカは、中米と太平洋に進出しハワイ王国を併合・スペインと戦争してフィリピンとグアムを略取しました。(これに日本が口出ししなかったのは、のちの桂-タフト協定につながるなにかがあったのだと思います。)
ドイツは1898年に宣教師殺害事件を口実に山東半島の青島(チンタオ)を租借します。これに対抗する形でロシアは日本から掠め取ったような遼東半島の旅順・大連を租借します。念願の不凍港です。ドイツとロシアに対抗してイギリスが九竜と威海衛(いかいえい・山東半島の東端)を租借します。
もう一触即発状態でした。威海衛(いかいえい)は重要な軍事拠点であり、日清戦争の戦闘で有名な場所です。まんまと英国さんに取られてしまいました。
この状態からドイツだけハバにされたのが第1次世界大戦の東アジアでの勢力図になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【日英同盟】
ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府内には、2つの意見が生じた。
1つは伊藤博文・井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認める代わりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換によって、日露間の利害を調整しようとするものであった。
これに対し、桂太郎首相・小室寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えた。
勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず、‘光栄ある孤立’を保ってきたイギリスではあったが、当時バルカン半島や東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。
協約の内容は、
1)清国と韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国、およびイギリスの清国、における政治的・経済的利益を互いに擁護し、
2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、
3)さらに2国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる。
というものだった。
(後略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3)は、ロシアに加担する国があったら「おれら英国紳士が出てって相手するよっ」という暗黙の脅しです。露清の密約なんぞ英国諜報部につつぬけでした。日本としては清国かドイツを巻き込んで英国の参戦に持ち込みたかったな。どうなっていたでしょうか?
今回の記事の画像の引用元
2枚目→http://heiwa.yomitan.jp/4/3206.html
3枚目→http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-date-20110103.html
今回の記事は『朝鮮半島史』の記事の焼き直しです。
次の記事:→《 未校了 》
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑦「日露戦争とポーツマス条約」》
日本近現代史研究~⑨「明治維新の日本防衛戦構築」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
前回の記事で沖縄・南西諸島を巡っての、日本と清国(中華帝国)の領土防衛戦のせめぎ合いを書きました。朝鮮半島あるいは北方でも領土防衛戦のせめぎ合いが、もちろんのことありましたので、この記事で書いていきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【朝鮮半島】
明治維新以来、日本の対アジア外交の中心は朝鮮に向けられていた。
欧米列強の東アジア進出に強い危機感を抱いていた日本政府は、朝鮮が列強、とくにロシアの勢力下に入れば日本の国家的独立もまた危なくなると恐れた。
そしてそれ以前に(筆者注:ロシアに朝鮮半島を奪われる前に)日本の主導権で朝鮮を独立させて日本の影響下におき、列強と対抗しようと考えていた。
征韓論や日朝修好条規の締結もそのあらわれであった。
【征韓論】
朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒絶した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬姿勢をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。
欧米から帰国した岩倉具視使節団一行から強く反対され、征韓論派の西郷隆盛らの参議は総辞職した。
(明治六年の政変)。
国力を高める方が先であるという使節団の判断。
(1873年)
【日朝修好条規】
日本の軍船がソウル漢江近郊の江華島で朝鮮から砲撃を受けた江華島事件をきっかけに、李氏朝鮮を開国させて日朝で結ばれた条約。李氏朝鮮側にとって不平等条約である。また朝鮮は同様の条約を欧米列強とも締結した。(1876年)
日本のこのような朝鮮政策は、朝鮮を属国とみなして宗主権を主張する清国と、しだいに対立を深めることになった。李氏朝鮮内では日本派と清国派の激しい対立抗争が激化するが、ややこしいので割愛。別連載の朝鮮半島史に詳しく記しました。
【福沢諭吉の脱亜論】
福沢諭吉は、朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、朝鮮の改革派を援助し、彼ら自身の力で朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。
しかし、1884(明治17)年、清国の軍事介入で改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、福沢の期待は失われた。
福沢は翌年寄稿した社説「脱亜論」にて、「近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、日本は独自に近代化を進めて西洋諸国の仲間入りをし、朝鮮・清国にも西洋流のやり方で接するほかはない。」と論じた。
そんなわけで
日清戦争(1894~5)、日露戦争(1904~5)、となりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんでロシアが朝鮮半島に?ということなのですが、冬でも凍らない不凍港(軍港・貿易港)がどうしても欲しいというロシアの伝統的悲願のためです。ロシアは清国の弱体化に付けこみ、1960年に沿海州を獲得、ウラジオストック港を建設して東方進出を企みます。ウラジオストックとはロシア語で『東方の支配』という意味です。
日本・清国・ロシア、は朝鮮半島をめぐって戦争になりました。今から思えばみんな国策を誤りましたねw 関わってはいけない。
日清戦争は日本と清国の戦争、日露戦争は日本とロシアの戦争、なのですが、朝鮮半島は主戦場になりました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は明国(中華帝国)を見据えてのものでしたが、このときも朝鮮半島は主戦場になりました。
1910年から1945年までは、日本に併合され、日本統治時代となりました。
ついでにいうと、朝鮮戦争でも半島全土が戦場になりました。
このあたりは、日本に対してただならぬ恨みを持つ韓国人・朝鮮人の民族性に於ける背景とも取れますが、だからといって反日のためならなにをやっても許される「反日無罪」という考え方はとうてい理解できるものではありません。
また「千年怨む」という朴槿恵-韓国大統領の発言(2013.3月)に至っては、国際社会でも失笑物でしょう。
それではロシアとの関係で北方のほうもみていきます。ついでに太平洋方面も
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【樺太と千島列島】
ペリーについでロシアのプチャーチンも再び来航し、下田で日露和親条約(1854年)を締結した。
国境については千島列島の択捉島以南を日本領、得撫島(ウルップ島)以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地として境界を決めないことにした。
樺太(現・サハリン)の領有問題は、明治政府も引き続いて交渉にあたっていた。
ロシアの南樺太への進出が強まるにつれ、政府部内には北海道開拓に全力を注ぐために樺太を放棄しようという意見が強くなり、樺太・千島交換条約(1875.明治8年)に調印して、樺太全土をロシアにゆずり、その代償として千島列島全島を日本領と定めた。
(筆者注:のち日露戦争の講和-ポーツマス条約で日本の南樺太領有が決まる)
【小笠原諸島】
小笠原諸島については、1876(明治9年)、アメリカ政府がそれが日本領であることを承認して解決をみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時まだ航空機が発明されていません。20世紀になってからです。当時は小笠原諸島のような離島は軍事拠点として重要視されなかったのでしょう。補給港・避難港としてならば日本を開国させているのでそれで十分とアメリカは判断したと思います。でなければ簡単にアメリカが折れるわけがない。
江戸幕府はペリ―艦隊にいきなり江戸湾近くの喉元に軍船で乗り付けられ、翌年に有無をいわさず開国させられてしまったのです。
アメリカ合衆国大統領の親書を携えたペリー東インド艦隊司令長官
による【力による現状変更】でした。
二度と外国にこんなことをされてはかなわんということなのです。
東インド会社が引っ掛かりますか?
ペリーさんはインドにあったアメリカの東インド会社から東へ航路をとって来航してきました。当時太平洋航路はまだありません。米-メキシコ戦争の結果カリフォルニアがアメリカに割譲されたのは1848年です。(わずか5年前)。
そのあと南北戦争です。
ベリー艦隊-黒船来航は突然起こったように感じますが、そうではありません。外国船の来航はかなり以前からあり、江戸幕府もそれなりに対応してきました。ですが、現状認識がムチャムチャ甘かったのです。まさかこんな強硬手段にでられるとは!?でした。
ゆえに私は、現在の外交安全保障に照らし合わせても、
「憲法9条があるから外国の軍隊が攻めてくることはない」
「たとえ攻めてこられても自国の自衛権のみで対処できる」
という意見にはまったくもって賛同できません。傾向と対策を練り、充分な備えをしないといけないと思います。備えがないとつけこまれます。共通の敵国にはその国の脅威に晒されている国同士が同盟を結んで対処するべきです。
幕末・明治維新の先人たちの国防の努力には格別の尊崇と感謝をしています。しかし次もまたあんなに都合よく旨くいくとは限らない。欧米以外のアジア・アフリカの国のなかで、欧米に武力干渉されたのに、自力で近代化を果たし独立を守ったのは日本だけです。
つぎの記事で江戸時代末期の外国船来航と江戸幕府の対応について書きます。幕府も長年それなりに頑張ってはいたのです。ですがアメリカの武力干渉による強制的開国という事態を避けられなった。
~ ~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~ ~
次回の記事でこの連載は最終回になります。
今回の記事の画像の引用元
1.6.7枚目→ウイキペディアより
上記以外の画像→手持ちの詳説日本史研究(山川出版社)より
次の記事:→《 未校了 》
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑧「日清戦争と下関条約そして三国干渉と日英同盟」》
日本近現代史研究~⑩最終話「江戸幕府の外交防衛政策の破綻」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
江戸時代の外交防衛政策は簡単に言えば鎖国です。三代将軍家光の時に完成しました(1641年)。島原の乱や中華王朝の明清交替と同じ時期です。家康公は朱印船などむしろ海外貿易には積極的だったと言われています。
長崎の出島を通じてオランダと清国のみ交渉を持っていました。また近隣国とは、薩摩藩島津氏を通して琉球、対馬藩宗氏を通じて李氏朝鮮、と交渉を持っており、また蝦夷地のアイヌとは松前藩を通して交渉をもっていました。
日本人の海外渡航は全面禁止です。漂流は別。
その鎖国が崩れて、江戸幕府は力による現状変更で開国させられてしまうわけですが、それまでには多くの過程と言うか経過と言うか、あります。
←手持ちの「詳説日本史研究 山川出版社」にて表にまとめてありましたので引用。
ひとつひとつ記載を拾って経過を追っていきます。
ほんとうに、欧米列強の海外植民地にされなくてよかったなあと思うところであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【1778 ロシア船.厚岸に来航】
最初に日本と接触を持ったのはロシアで、シベリア開発のため日本との通商関係の樹立をめざし、日本人漂流民を保護して日本語の習得をはかった。皇帝(ツアー)エカテリーナ2世(1729~96)のもとで積極的な対外進出策をとり、その勢力は千島列島を南下し、1778(安政7)年、蝦夷地の厚岸で松前藩に通商を求め、翌年に松前藩が拒否する。
(厚岸は現在の北海道厚岸町・釧路市の東隣りに位置します。)
【1792 ロシア使節ラスクマン.根室に来航】
ロシア使節としてラスクマン(1766~1803?)が根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光太夫(1751~1828)らを日本に送還するとともに通商を求めてきた。幕府は、外交交渉は長崎以外では行わないので長崎に行くように回答し、長崎港への入港許可症である信牌(しんぱい)を与えた。
ラスクマンが交渉の場で、江戸湾に行きたいと強く要求したことが契機となって江戸湾の防備が検討され、海岸防備策が模索され始めた。
(大黒屋光大夫は皇帝エカテリーナ2世に謁見していて、ロシア語も習得していました。伊勢白子は現在の三重県鈴鹿市)
【1804 ロシア使節レザノフ.長崎に来航】
ロシア使節レザノフ(1764~1807)が、ラスクマンの持ち帰った信杯(しんぱい)を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めたが、幕府は、朝鮮・琉球・中国(清国)・オランダ以外とは新たに外交通商関係を持たないのが祖法であるとして拒否した。このときの幕府の対応は冷淡であった。
【1806 ロシア船.翌年にかけ樺太・択捉などを襲う】
レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、ロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこり、特に択捉守備兵が敗走したことから、国内は騒然とした雰囲気になった。
【1808~9 間宮林蔵、樺太・沿海州を探査】
幕府は松前・蝦夷地・樺太を直轄にして松前奉行をおいたが、樺太はその周回すら不詳のため、間宮林蔵(1775~1844)らに探査を命じた。
間宮は樺太が島であることを確認するとともに、対岸の沿海州に渡り、清国の役所であるデレンまで足を踏み入れた。
ロシアとの緊張関係はなおつづき、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを捕え、箱館ついで松前に監禁した。
ロシア側も報復として、択捉航路を開拓した淡路の商人高田屋嘉兵衛を捕えた。
1813(文化10)年にゴローウニンを釈放して、ロシアとの緊張関係は改善された。
(1812年にナポレオンがロシア遠征を行い、モスクワを占領、冬に撤退しています。)
【1808 フェートン号事件】
イギリス軍艦フェートンが長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとって薪・水・食糧を強要した。長崎奉行は責任をとって自害し、長崎警固の役を負っていた佐賀藩主は警備怠慢の責任を問われ処罰された。
幕府は、懸案であった江戸湾の防備に着手し、白河藩・会津藩にそれを命じた。
(この時期のヨーロッパはフランス革命後のナポレオン戦争の真っ最中でオランダは一時的にフランスの属国になっていました。英仏の対立は激しく、イギリスはオランダの東洋拠点を奪おうとしたのです。)
【1818 イギリス人ゴードン.浦賀に来航】
その後もイギリス船は、1817(文化14)年、1818(文政元)年、1822(文政5)年に浦賀に来航し、1824(文政7)年には常陸大津浜に上陸した捕鯨船員、および捕鯨船と交易していた漁民を水戸藩が捕えた。
【1825 幕府.異国船打払令を発す】
それまでは幕府は外国船を穏便に扱い、薪・水・食糧を与えて帰国させる方針をとっていたが、異国船打払令を出し、日本沿岸に来航する外国船を撃退するように命じた。
欧米列強の勢力が日本近海にせまっているときに、この威嚇策は、きわめて危険な政策であった。
【1837 アメリカ船モリソン号.浦賀・山川に来航】
外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し退去させた。
翌年、オランダ商館長がこの外国船がモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。
漂流民を送還してきた外国船をその来航の目的も問わずに打ち払ったことから、洋学者の渡辺崋山・高野長英は、日本を取り巻く国際情勢から幕府の打ち払い政策を厳しく批判した。
(渡辺崋山・高野長英は幕府批判をしたとして幕府に厳しく処罰されました。~蛮社の獄~)
【1840~42 アヘン戦争】
アヘン戦争についての情報は、オランダ船・清国船によりいち早く日本に伝えられ、幕府に強い衝撃を与えた。
【薪水給与令】
1842(天保13)年にオランダ船によって、イギリスがアヘン戦争終結後に通商要求のため軍艦を派遣する計画がある、という情報がもたらされると、幕府は異国船打払令を緩和して薪水給与令を出し、漂着した外国船には薪・水・食糧を与えることにした。
これは、打払令により外国と戦争に危険を避けるためであった。
1844(弘化元)年、オランダ国王が幕府に親書を送り、アヘン戦争を教訓として清国の二の舞になることを回避するために開国してはどうかと勧告した。
幕府は、清国がアヘン戦争に敗れて香港を割譲し、開国を余儀なくされた情報を得ていたが、オランダ国王の勧告を拒否して鎖国体制を守ろうとした。
【フランス船 琉球に来航】
同年、フランス船が琉球に来航、翌年にはイギリス船が琉球に来航、日本や中国(清国)への寄港地として琉球に開国・通商を要求する事件がおこっている。
(ヨーロッパではナポレオンが失脚し、1814年からウィーン体制に。オランダもすぐに独立を回復)
【1846 アメリカ使節ビッドル浦賀に来航】
アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル(1783~1848)が浦賀に来航し、国交と通商を要求したが、幕府はその要求を拒絶した。
しかし、アメリカは1848年にメキシコから割譲したばかりのカリフォルニアで金鉱が発見され西部地方が急速に開けていったことを背景に、太平洋を横断して貿易することを企図し、同時に北太平洋の捕鯨業も活発になっていたので、商船や捕鯨船の寄港地が必要となり、日本への開国の要請はいっそう高まった。
【1853 アメリカ使節ペリー、浦賀に来航。ロシア使節プチャーチン長崎に来航】
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー(1794~1858)は、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府はすでに前の年にオランダ商館長から情報を得ていたが、有効な対策を立てられなかった。
幕府は朝鮮・琉球以外の国からの国書は受領しないという従来の方針を破り、ペリーの強い態度に押されて国書を正式に受け取り、翌年に国書に回答することを約束してとりあえず日本を去らせた。
その直後に、ロシア使節プチャーチン(1803~83)も長崎に来航し、開国と国境の画定を要求した。
ペリーは翌年、軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航し、江戸湾の測量を行うなど軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫った。
幕府はその威力に屈して日米和親条約を結んだ。
(日本が欧米列強に一気に攻め込まれなかった背景には、ヨーロッパ全土を巻き込んだクリミア戦争《1953~56》・アメリカの南北戦争《1861~65》があります)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幕末の外国からの圧力に関して、江戸幕府の場当たり的な対応にはいろいろと考えさせられるものがあります。「異国船打払令」は「自衛の手段」としてどうなんだろう?と思いもありますが、だからといって、なし崩し的に際限なく上陸を許可して薪水食糧を与えてしまっていいのか?という思いもあります。
1844年のオランダ国王による親書~「開国してはどうかと勧告」~を、「新たに外交通商関係を持たないのが祖法」とかたくなに拒否した幕府の態度は、全くもって現状認識ができておらず、もう思考停止に陥っていたとしか思えません。ペリーさんが1953年に浦賀に来航する前年に「オランダ商館長から情報を得ていた」ことも驚きです。
まったく時代遅れになってしまっている「祖法(祖先の始めた法という意味。)」にこだわるあまりに未曾有の国難に際してなんの有効な対策を打てなかったのは教訓にできそうです。むろん江戸幕府の封建体制の政治と現代の議会制民主主義による政治を単純に比較なぞ出来ないことは理解しています。また鎖国は200年以上続きましたが、今年は戦後まだ70年です。時間の経過もかなり違う。
ですが、現行で時代に合わない法は改訂されるべきでしょう。また現代社会の進むスピードは江戸時代よりもはるかに速い。第2次世界大戦後の米ソ冷戦時代が冷戦構造の崩壊で終結してからもう24年が経ち、世界情勢は冷戦時代とは異なる新時代になりました。日本国の外交も防衛も新時代に対応したものにしないといけない。
こちらはネットでよく流れてくる画像です。力で現状変更をしようとする膨張主義の国には備えが必要です。
ほんとうにこの地図は合っているのか?逆さにしてみましょう。
合っています!!
この国は大陸国家なのに海洋進出がしたくてしたくて堪らないのです。この国的にはなんと邪魔な日本列島であり、日本国としては備えをしないといけない。
列強国に蹂躙された清国を恥と考えているのか、明国のときの海洋進出の再興と考えているのか知りませんけど、日本国としては実に迷惑!わたしは、現状にあわない憲法9条の条文は改正すべきだと思いますし、現在国会で審議されている平和安全法制にも賛成の立場です。
「備えあれば」も「人事を尽くして」も国防に関してはまったく出来ていないのがいまの日本国であり、わたくしはたいへん憂いておりますし、こんな状態では天命を待つ覚悟も持てません。
(ある学者先生のお言葉のパクリですw)
~ ~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~ ~
今回の記事の画像の引用元
手持ちの詳説日本史研究・詳説日本史研究(山川出版社)より
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑨「明治維新の日本防衛戦構築」》
戦後70年の安倍談話全文「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を」
「引用:首相官邸公式ウェプサイト↓
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0814kaiken
連載記事「日本近現代史研究」のエピローグとして
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
終戦70年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました。
その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、1000万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして70年前。日本は、敗戦しました。
戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。ひとりひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
戦後、600万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた3000人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後70年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちは、20世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
終戦80年、90年、さらには100年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣 安倍晋三
日本近現代史研究~③「GHQ占領下の日本」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
GHQ占領下の日本は、教科書の記述では「GHQの大日本帝国解体のあれこれ」「日本国憲法」「極東軍事裁判(東京裁判)」を主体に書かれていることが多いと思いますが、この記事では内閣・国会の動きを時系列順でならべながら、アプローチしていきます。
復員と引き揚げ・物資の不足・インフレ・労働争議などの社会的混乱は割愛します。ちなみに復員は軍人、引き揚げは民間人のことを指します。
左の図にややこしいことが書いてありますが、日本の占領統治は実質アメリカ単独で権限はGHQのマッカーサーに与えられていました。日本の場合はドイツと違い、総司令部が軍政を敷いて直接統治するのではなく、日本政府を使った間接統治でした。
そうです。占領統治中も日本の内閣と国会はあったのです。
マッカーサーが300人も連れて、悠々とフィリピンから厚木に到着したのは8月30日ですが、ポツダム宣言受諾後も内閣はありました。ポツダム宣言受諾を決めた【鈴木貫太郎 内閣】のあとがこちらの内閣です。
【東久邇宮稔彦 内閣】(1945.8.17~10.4)
~ 1945年 ~
9月2日 降伏文書調印(東京湾上・戦艦ミズーリ甲板上)
9月11日 東条英機元首相らA級戦犯容疑者の逮捕
9月20日 ポツダム緊急勅令
(GHQの命令を法律の制定を待たずに日本政府が発することができる)
10月4日 人権指令
(政治犯の即時釈放・思想警察の全廃・内相.警察首脳の罷免・一切の弾圧法規の撤廃を求めた指令)
間接統治とは言いましても、実際はGHQによる統治でして、GHQの言いなりにならない東久邇宮稔彦 内閣は2カ月足らずで総辞職させられてしまいました。
【幣原喜重郎 内閣】(1945.10.9~1946.5月)
文内にある通り、幣原総理はご長老でありましたので、GHQとのハードな交渉に当たったのは外相の吉田茂氏(のちの首相)でした。が、GHQの断行改革は怒涛のごとくすすんでいきます。
10月13日 国防保安法・軍機保護法 廃止
10月15日 治安維持法 廃止
10月22日 教育改革の指令
11月6日 財閥解体の指令
11月21日 治安警察法 廃止
12月9日 農地改革の指令
12月17日 普通選挙法の公布 (満25歳以上の男子⇒満20歳以上の男女)
12月18日 衆議院解散
12月22日 労働組合法の公布
~ 1946年 ~
1月1日 天皇陛下のいわゆる人間宣言
1月4日 公職追放令
2月13日 日本国憲法のいわゆるマッカーサー草案の提示
4月10日 解散総選挙→政界再編→新体制での国会開催→新憲法(案)の審議
5月3日 極東軍事裁判(東京裁判)開廷(1946.11閉廷)
【新党ブームと政界再編】
合法政党となった「日本共産党」、結成された「日本社会党」「日本協同党」(中道)、保守系政党が再編された「日本自由党」「日本進歩党」、など新党ブームが起こります。
これらの政党によって議席が争われた戦後初・新選挙法下での衆議院選挙の結果がこちら
保守系の「日本自由党」「日本進歩党」の連立内閣が組閣されました。
「日本自由党」の党首は鳩山一郎氏でしたが、GHQの公職追放の対象者に指定され(5月3日)、外相だった吉田茂氏(日本自由党)が首相に任命されます。
【吉田茂 内閣(第1次)】(1946.5.22~1947.5月)
帝国議会(衆議院・貴族院)にて日本国憲法草案(形は憲法改正草案)の審議
6月、枢密院可決 → 8月、衆議院修正可決 → 10月、貴族院修正可決
11月3日公布 → 翌1947年5月3日施行 → また衆議院解散・政界再編
~ 1947年 ~
結成された労働組合の運動が激化、2月1日にゼネストの計画がもちあがる。
(日本共産党はある時期までは、ストライキから革命的情勢へ導けるように、ストを指導していた形跡がある)
《↑詳説日本史研究472頁の記載より引用。》
1月31日 マッカーサーが中止命令 ⇒ ニ.一 ゼネラルストライキ回避
4月20日 第1回参議院選挙
貴族院が廃止されました。貴族院議員だった吉田茂氏は↓の衆議院選挙に立候補して当選します。
4月25日 衆議院解散総選挙
この「民主党」は前の記事で述べた「日本民主党(1954年結成)」とは全く別のモノです。
「日本進歩党」全員、「日本自由党」から芦田均氏ら9人、「日本協同党→(協同民主党)→国民協同党」から25人、で結成されていて、解散時に第一党でした。
選挙の結果、第一党がなんと「社会党」になり、党委員長の片山哲氏が首相に任命され、「社会党」「民主党」「国民協同党」の連立内閣が組閣されました。
マッカーサーの思惑通りに中道の政党内閣になりましたとさ。だがあまりに左に寄り過ぎたw あとで説明。
【片山哲(社会党) 内閣】(1947.6月~1948.2月)
この画像の説明にある芦田均氏、三木武夫氏、は後に総理大臣になります。
この内閣は、与党第一党「社会党」内の左派(つまり極左)内紛のため総辞職。
かわって、連立を組んでいた「民主党」の党首-芦田均氏が内閣を組閣します。
【芦田均(民主党) 内閣】(1948.3月~1948.11月)
昭和電工疑獄事件により総辞職します。閣内に収賄の疑いで逮捕者が出たためです。ちなみに当時は大蔵官僚だった福田赳夫氏(後の首相)も逮捕されました(無罪)。のちに芦田均氏自身も逮捕されています(無罪)。
この内閣にかわる内閣は連立を組んでいた「国民協同党」の委員長:三木武夫氏(のちの首相:1974~76)を首相とするものにはならず、野党になっていた「日本自由党」の吉田茂氏が第2次吉田内閣を組閣します。経緯はややこしいので割愛。
ちなみに「日本自由党」は「民主自由党」へと再編して党名がかわってました。これだけでも十分ややこしい。
野党第一党の吉田茂党首が率いる「民主自由党」は、いろいろあって衆議院全体でも第一党になってました。
筋金入りのリベラリストと言われた芦田均さんは憲法9条に深くかかわっています。「前項の目的を達するため」という文言を入れた人なんです(芦田修正)。
彼の選挙地盤はのちに谷垣専一氏に引き継がれ、現在は谷垣貞一幹事長(前自民党総裁)に引き継がれています。やはりこの人も筋金入りのリベラリストですね。2009年の政権交代・総裁就任にも因果を感じます。
三木武夫さんは保守系左派で汚職金権とは無縁のクリーンさが売りで理想主義者でした。彼の系譜は政治家として断絶し、三木派の流れを受け継いでいる派閥もまったく別な色になりましたが、彼の強い影響を受けた奥さまは「九条の会」設立呼びかけ人のひとりです。
【吉田茂 内閣(第2次)】(1948.11月~1949.1月)
疑獄事件のあとを受けての組閣だったので、早々に衆議院は解散してまた民意を問うことに。
吉田茂首相率いる「民主自由党」が圧勝。そののち吉田内閣は第5次まで続き、長期安定政権になります。
「社会党」は、党首の片山哲氏まで落選するほどの惨敗を喫します。(48議席)
現職の野党第一党党首なのに落選!!の珍記録は、昨年12月の衆議院選挙まで更新されることはありませんでした。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事: 《日本近現代史研究~④「大東亜戦争」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~②「米ソ冷戦構造下の日本」 》
画像引用元
7.9枚目、政党公式ポスターより
上記以外: 詳説日本史研究の目次(山川出版社) 460頁~477頁
日本近現代史研究~④「大東亜戦争」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
第2次世界大戦後にアメリカ側の呼称「Pacific War(太平洋戦争)」を、GHQが日本に強制して定着しましたが、当時の日本側の呼称は「大東亜戦争」です。また1941.12の対米英宣戦布告以降に呼称するようになりましたが、その始まりは中華民国との軍事衝突が起こった1937.7月からとしました。
中華民国の蒋介石は、日本が米英に宣戦布告後、すぐ日本に宣戦布告してきました。
【平沼 騏一郎 内閣】(1939.1~1939.8月)
5月・ノモンハン事件 8月・独ソ不可侵条約締結
中華大陸に進出し中国国民党軍と泥沼の戦争状態になっていた日本はソ連の侵攻を警戒していました。ノモンハン事件でソ連と軍事衝突したからです。なのでドイツのソ連侵攻を当てにしていたきらいがあったのですが、独ソの不可侵条約で当てが外れたためこの内閣が総辞職します。
【阿部 信行 内閣】(1939.8~1940.1月)
9月 ・ドイツのポーランド侵攻 ・第2次世界大戦の勃発
欧州の戦況がどうなるのか静観の構えとなりました。大戦不介入を声明。ちなみに首相は陸軍予備役
【米内 光政 内閣】(1940.1~1940.7月)
・ドイツ軍の電撃戦が連戦連勝 ・フランスがドイツに降伏-イタリアも参戦
フランスの降伏を受け、ドイツと同盟を結んで、フランス領インドシナ半島に進出し、中国国民党の蒋介石を援助している英・蘭のルート(援蒋ルート)を遮断する方針が陸軍から持ち上がり、内閣が倒されます。首相は海軍予備役で対米開戦には消極的でした。
【近衛 文麿 内閣(第2次~第3次)】(1940.7~1941.10月)
・1940.9月:北部インドシナ半島へ進駐
・1940.9月:日独伊三国同盟 締結
・1940.10月:大政翼賛会 発足
・1941.4月:日ソ中立条約
・1941.6月:ドイツが不可侵条約を破って独ソ戦開始
・1941.7月:南部インドシナ半島へ進駐
・1941.8月:アメリカ主導の日本への石油輸出凍結(ABCD包囲網)
・1941.9月:御前会議にて対米英開戦の方針が決定
近衛首相は大東亜共栄圏には積極的でしたが、米英開戦には消極的で、なんとか開戦を避けようとしていました。外相の松岡洋右も非開戦派でしたが、独ソの動きに翻弄されます。また近衛首相は、松岡とは別なアメリカとの交渉を駐米大使の野村吉三郎を通しても行いました。この交渉は松岡がのちに強硬に出て潰してしまい、松岡を切るために内閣総辞職-第3次内閣が組閣されます。
陸軍相の東条英機と陸軍はむろん南方進出と対米開戦推進派で、8月には海軍も開戦やむなしとの気運になっていました。ドイツとソ連ならドイツが勝つだろうと日本は思っていました。日本はずっとソ連の脅威に悩んできており、方針が「北守南進」でした。
しかしドイツのソ連侵攻により北の脅威が薄れたと判断し、フランスがドイツに降伏したことも好機ととらえ、フランス領インドシナへの進駐を加速しました。むろんドイツに加担してソ連に侵攻する北進論もありましたが、南方の資源確保が優先されました。北守が手薄に。これがのちの引き揚げ時に痛いことに。
インド・ミャンマー・マレーシアなどは英領、フィリピンは米領、インドネシアはオランダ領でしたので、日本の南部インドシナ半島進出は非常に警戒され、米英は日本の予想よりもずっと日本に対して強硬な姿勢になりました。
近衛首相は10月になっても対米交渉に望みをつないでいましたが、けっきょく総辞職してしまいます。
(首相は位の高い貴族の出身-公爵)
【東條 英機 内閣】(1941.10~1944.7月)
・1941.11月:アメリカ国務長官コーデル・ハルの提示(ハル・ノート)
・1941.12月:真珠湾攻撃-日米開戦
1943年11月には、大東亜圏の国の政府・仮政府を帝都東京に集めて、大東亜会議も開催されましたが、戦局の悪化と日本の国力低下に伴い、これらの国でも民族的抵抗の気運が高まってきます。
←(クリックで拡大)
また東条内閣も1944年マリアナ海戦の敗北を受けて退陣に追い込まれます。
【小磯 國昭 内閣】(1944.7~1945.4月)
陸軍大将(朝鮮総督)の小磯と海軍大将の米内と協力してつくった内閣で、米軍に一撃を加えた上で対米講和を図ることを画策しました。が、陸軍強硬派の抵抗は大きく、またさらに戦況が悪化(フィリピン→硫黄島→沖縄)し退陣します。サイパン島・テニアン島から出撃する米軍機の本土空襲も激化しました(東京大空襲は45年3月)。
【鈴木 貫太郎 内閣】(1945.4~8月)
元・侍従長で昭和天皇の信任の篤い鈴木首相は戦争終結に向けてソ連を仲介にすることを画策しますが、ソ連はすでにヤルタ会談で対日参戦の密約を米英と交わしており、策は実りませんでした。7月末のポツダム宣言を無視したのはソ連仲介をまだ頼みの綱としていたからです。
ニ発の原爆投下(8/6.8/9)・ソ連の参戦(8/8)を受け、御前会議で鈴木首相が陛下のご裁断を仰ぐという異例の形(通常は陛下の御裁断はない)で、ポツダム宣言の受諾が決定しました。鈴木首相が過去にニ.ニ六事件で襲撃され瀕死の重傷を負ったこともここで追記しておきます。
【極東軍事裁判(東京裁判)】(1946.5月~1948.11月)
A級戦犯とは、国際条約に違反して戦争を開始・計画・遂行した者のことを指し、従来戦争犯罪人とはされてきませんでした。従来の戦争犯罪とは俘虜虐待など戦争のルールをやぶったことに適用されたのです。
戦争の開始・計画・遂行が犯罪とされたのは第一次世界大戦後に締結されたパリ不戦条約(1928年)の影響が大きいと思いますが、戦勝国の戦争行為の正当化に利用されたきらいもあります。
ドイツの戦争犯罪人を裁くニュルンベルク裁判とこの極東軍事裁判にて世界で初めてA級戦犯は適用されました(C級も)。A(平和に対する罪)/B(通常の戦犯)/C(人道に対する罪)はあくまで罪状のカテゴライズ(分類分け)であり、罪の重さを示しているものではありません。A級戦犯はエース級戦犯ではありません!!また日本語の公文書ではABCではなくイロハです。
カテゴリーC級の人道の罪は意図としてホロコーストを裁くことを目的としており、日本人の戦争犯罪人はほとんど裁かれていません。そもそもジュネーブ条約をまだ批准しておりませんでしたし。
あと、裁判ではA級に対してBC級というカテゴライズでした。つまりBC一絡げ。
ドイツは自分たちが選挙で選んだナチス党(Nazis 国家社会主義労働者党)に全ての罪を被せ「ドイツ国民には罪はないが、ナスチを選んだ責任がある」という立場をとって講和しました。それで国際社会に通ったから文句は言わないけど、日本人には馴染まない発想。
詳しくは⇒ wikipedia.org/wiki/ドイツの戦争犯罪観
(したがってドイツは国家賠償などしていません。ナチス犯罪による犠牲者として個人への補償です。)
今回の記事で紹介してきた歴代の首相も多くがA級戦犯として訴追されました。
平沼 騏一郎氏、終身刑⇒病気仮釈放⇒直後に死去
阿部信行氏、逮捕されるが不起訴 (謎となっている)
米内光政氏、不起訴。
近衛文麿氏、戦犯容疑逮捕決定⇒出頭せず服毒自殺
東條英機氏、絞首刑
小磯國昭氏、終身刑⇒獄中にて死去
鈴木貫太郎氏、不起訴。
画像引用元:wikipedia.org/wiki/内閣総理大臣の一覧
有罪とされた罪は償われています。(自殺した人には罰を科せない)
また償ったのちに名誉の回復もされつつあります。くわしくは⇒名誉の回復
事後法での訴追だったとして裁判の無効を唱える意見もあり、インドは判決を不服としてサンフランコ講和条約会議に出席していません。のちすぐに講和(翌1952年)。
まあなんにしろ
無効であろうが有効だろうが、
平和と人道に対する戦争犯罪は
すでに罰を受け償われています。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事: 《日本近現代史研究~⑤「満州事変と支那事変」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~③「GHQ占領下の日本」 》
画像引用元
4枚目 :ウイキペディアより
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 452頁~463頁
日本近現代史研究~⑤「満州事変と支那事変」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
「支那事変」という名称について最初に説明しておきます。名称が4回変わっています。
北支事変:1937年当時、盧溝橋での軍事衝突
支那事変:1937年当時、上海・南京への戦線拡大に伴う変更。(日本政府公式)
日華事変:1945年以降、連合国側による名称の変更。
日中戦争:1972年以降、日中国交回復後、中国側の圧力による変更
最後通牒も宣戦布告もなかったため戦争ではなく事変といいます。これは双方ともに事変のほうが都合がよかったからです。支那と言う呼称はCHINAのフランスなどでの読み方で、日本でも漢字の当て字で採用しました。
むろん他の諸外国にも漢字の当て字は採用されており、亜米利加など今でも生きています。支那の呼称も東シナ海・インドシナ半島など、いまでも生きています。侮蔑用語などというのはとんでもない言い掛かりです。
事実上の戦争だったのは間違いありませんが、中国共産党側は日本に優位に立つためにどうしても日本と戦争して勝ったことにしたいのですね。日本と戦ったのは蒋介石の国民党勢力です。共産党は八路軍(人民解放軍の前身)を国民党指揮下に編入させて、自分たちは延安の解放区に隠れていました。そもそも公式に戦ってない。
八路軍とは戦いましたよ。日本軍はずいぶん苦戦したそうです。
呼称について詳しくは → wikipedia.org/wiki/支那事変
【若槻 禮次郎 内閣(第2次)】1931年4月~12月
~ 1931年 ~ (昭和6年)
3月 3月事件 (軍部によるクーデター計画~未遂)
9月 柳条湖事件
10月 10月事件 (軍部によるクーデター計画~未遂)
11月 満州事変
クーデター計画は軍部による政権樹立を目指すもので、政府には重い圧力になりました。
柳条湖という地は奉天の近くにあり、満州鉄道の線路が爆破された事件です(関東軍の自作自演)。
遼東半島の南部を関東州と呼び、関東軍はもともとは南満州鉄道の警備に当たっていました。
関東というのは関所の東という意味ですが、該当する関所は万里の長城の最東端にある山海関のことです。
軍部の圧力に押された若槻内閣は事変の拡大を阻止することに失敗し、12月に退陣に追い込まれます。当時の外交は幣原外交と呼ばれる協調外交でした。外務大臣の幣原喜重郎氏にちなみます。そうです。戦後に首相になった人です。
だいたいどういう人か分かりますね。軍部は幣原外交を弱腰だ軟弱だと非難しつづけ、政府と対立していました。
事件を画策したとされる板垣征四郎氏と石原莞爾氏は戦後A級戦犯として訴追対象となります。(石原氏は東条英機氏との対立と自身の病気のため不起訴・板垣氏は有罪で絞首刑)。両名とも柳条湖事件への関与は否定していましたが、花谷正元陸軍中将証言により関与が明らかとされています。(真相は不明)
【犬飼 毅 内閣 】 1931年12月~1932年5月
~ 1932年 ~ (昭和7年)
2月 血盟団事件
3月 満州国建国
5月 五・一五事件(犬飼首相暗殺) ~ 政党内閣の終焉
【斎藤 実 内閣 】 1932年5月~1934年7月
5月 挙国一致内閣のはじまり~大政翼賛会に引き継がれ敗戦まで続く
9月 日満議定書~日本国と満州国のあいだの議定書(満州国独立承認)
10月 リットン調査団の報告書発表(満州国を認めないが、日本の権益は保障する)
~ 1933年 ~ (昭和8年)
3月 国際連盟脱退 (国際連盟が満州国を承認しなかったため)
5月 塘沽協定(たんくーきょうてい)満州事変の停戦協定が成立
【岡田 啓介 内閣 】 1934年7月~1936年3月
~ 1936年 ~ (昭和11年)
2月 ニ・ニ六事件
【廣田 弘毅 内閣 】 1936年3月~1937年2月
【林 銑十郎 内閣 】 1937年2月~1937年6月
【近衛 文麿 内閣 】 1937年6月~1939年1月
廣田首相はA級戦犯として訴追され絞首刑になりますが、首相なのに軍部の暴走を止められなかったという気の毒な理由ではあります。ニ・ニ六事件鎮圧以降、軍部とりわけ陸軍の発言力はなお一層強くなりました。以降は事実上の軍部独裁政権と言っていいでしょう。軍部の同意なしには物事が決められない状況になり、軍部の意向にそわない首相はすぐ退陣に追い込まれるようになります。
~ 1937年 ~ (昭和12年)
7月 盧溝橋事件 (北京近郊での日中軍事衝突)
11月 第2次国共合作 (中国国民党と中国共産党の抗日統一戦線)
11月 第2次上海事変 (戦線が上海・南京などに拡大)
12月 南京事件 (いわゆる南京大虐殺があったとされる事件)
国民党政府が首都とする南京を日本軍が上海から攻めてのが、南京事件(首都攻防戦)です。日本軍が南京に入城した際にはすでに蒋介石は上流の重慶に引き上げていました(敵前逃亡)。
このときにいわゆる南京大虐殺があったとされていますが、国民党の戦闘員は便衣兵という軍服を着用しないゲリラ兵が主だったので、その敗残兵の掃討作戦のことでしょう。
のちに日本は南京に国民党政府(日本の傀儡政権)を樹立しますので、そんな酷い大虐殺があったとは状況的にも考えにくい。首都攻防の激戦はありました。
その後、近衛内閣はドイツを仲介に国民党政府(重慶)と和平交渉をすすめましたが、国民党は条件が厳し過ぎるとして折れなかったので、1938年1月「国民党政府(重慶)を相手とせず」とし、交渉は決裂します。
近衛首相は東亜新秩序の建設に基づく三原則を発表し、それに同調した国民党のナンバー2の王兆名を重慶から南京に移し、日本による「国民党の南京政府」を1940年5月に成立させます。首相は王兆名。
以後、重慶の蒋介石の政権を「重慶政府」と呼ぶようになります。つまり、この時期(第2次世界大戦中)の中国大陸は、南京政府・重慶政府・延安の共産党解放区、に政権勢力が分裂していました。(北京は日本が占領)
盧溝橋の軍事衝突で国民党軍が撤退したあと、近郊の通州の保安隊(中国人部隊)が日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して大量虐殺を実施した通州事件をきっかけに日本軍が北京・天津を制圧していました。
(1937年7月)
《南京大虐殺はこの通州事件の写真をすり替えて捏造した説があります》画像検証は⇒ここクリック・グロ注意。
~ 1938年 ~ (昭和13年)
4月 国家総動員法公布
戦局の悪化・泥沼化・長期化にともない、日本国内では軍事費を工面するために軍事統制が強まっていきます。
1939年(昭和14年)にはもう国民徴用令が実施され、一般の国民が軍需工場などでの勤務に動員されるようになりました。
「ぜいたくは敵だ」関連の法令も順次施行されていきます。生活必需品も切符制・通帳制・配給制になっていきます。
ここまで生活を切り詰められ、働き手を兵隊に取られ、全土に空襲を受け、無条件降伏で敗戦したのです。
よくぞこんな超どん底の状態から、戦後に自主独立を回復し、経済大国に復興し、先進国になったものだと感心します。
G7(先進国首脳会議)のメンバーで欧米の国でないのは日本だけです。たいしたもんだ。(米英仏加日独伊)
1939年(昭和14年).9月には、ドイツのポーランド侵攻により、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発。
1941年(昭和16年).12月には、日本は真珠湾奇襲攻撃で米英と開戦し、世界大戦がアジア太平洋地域にも拡大します。
2014年のG7の写真:全部で9人いますけど、二人「EU」の人が入っているから。
今年のG7は6月にドイツで開催され、来年2016年.6月は日本で開催されます。
楽しみですねえ(^-^) →サミット会場、6月までに決定=「伊勢志摩」も名乗り
安倍3次内閣の集大成となり、そのあと7月に衆参W選挙、第4次内閣へです。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事:→《日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~④「大東亜戦争」 》
画像引用元
6枚目 : 詳説世界史研究(山川出版社) 473頁
8枚目 : http://www.thestar.com/news/world.html
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 430頁~445頁
日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
日露戦争の勝利(1905年)によって明治維新以来の富国強兵はある程度目標を達し、日本は欧米と肩を並べる新興大国(東アジアの強国)になりました。が反面、欧米列強国にひどく警戒されるようにもなりました。参考→黄禍論(イエローペリル)
とりわけアメリカは露骨で、1906年以降、日本人移民を排斥するような動きにでます。
【大隈 重信 内閣(第2次)】(1914年4月~1916年10月)
~ 1914年 ~ (大正3年)
6月: 第1次世界大戦の開始
空前の大戦好景気
日本は1914(大正3)年に11億円の債務があったのに、第一次大戦後は27億円の債権国に転じました。
膨大な債務は日露戦争そのものの戦費と戦争後の軍拡・国家経営のためですが、次回の記事にて。
~ 1915年 ~ (大正4年)
1月: 対華21カ条の要求
1912年に孫文が辛亥革命を起こしたのに、なんで支那国政府の総統が袁世凱なのかというと、孫文の革命は南京政府であり、北京の清朝の実力者だった袁世凱が北京政府(中華民国)の実権を握っていたからです。
孫文の革命は北京政府の掌握にまで達せず、失意の孫文は日本に亡命(1913~1916年)します。ふたたび国民党の南京政府が出来て、蒋介石が北伐を開始するのは、1926年になってからです。中華大陸は軍閥勢力による割拠状態でした。
ニ十一カ条要求は、第1次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約でも否定されず、ドイツが持っていた山東半島の権益も日本が引き継いだので、5.4運動という激しい抗日運動が起こります。
中国人の民族自決・列強国への抵抗の矛先が日本のみに向かうようになり、蒋介石の国民党勢力の支持拡大につながりました。また欧米列強国は日本の大陸進出に強い警戒感を持つようになりました。
【寺内 正毅 内閣 】(1916年10月~1918年9月)
~ 1917年 ~ (大正6年)
3月 ロシア革命 4月 アメリカ参戦 11月 ドイツ降伏
~ 1918年 ~ (大正7年)
7月 米騒動 8月 シベリア出兵 11月 第1次世界大戦の終戦
第1次世界大戦の講和条約がパリで締結されたベルサイユ条約です。このパリ講和会議で日本は五大国のひとつになりました(英米仏伊日)。日本は世界に先駆けて人種差別撤廃の条項を国際連盟規約に盛り込むことを提案しましたが、英米豪の強い反対で実現しませんでした。
【原 敬 内閣 】(1918年9月~1921年11月) 初の平民宰相~政党内閣
~ 1919年 ~ (大正8年)
1月 パリ講和会議 6月 ベルサイユ条約締結
~ 1920年 ~ (大正9年)
2月 尼港事件 3月 戦後恐慌
【高橋 是清 内閣】(1921年11月~1922年6月)
~ 1921年 ~ (大正10年)
11月 原敬暗殺事件 12月 ワシントン会議開幕
ベルサイユ条約の体制のもと、国際連盟によって、第1次世界大戦後のアジア太平洋地域の秩序を話し合ったのが、ワシントン会議です。日本の進出を抑えるための中国大陸の権益の門戸開放と軍縮が大きなテーマでした。
【加藤 友三郎 内閣】(1922年6月~1923年8月)
~ 1922年 ~ (大正11年)
2月 ワシントン会議閉幕 7月 秘密裏に日本共産党結成
【山本 権兵衛 内閣(第2次)】(1923年9月~1924年1月)
~ 1923年 ~ (大正12年)
9月 関東大震災
【清浦 奎吾 内閣】(1924年1月~1924年6月)
~ 1924年 ~ (大正13年)
大正デモクラシー運動が高揚 アメリカで排日移民法が成立(新規移民は不可)
【加藤 高明 内閣】(1924年6月~1926年1月)
~ 1925年 ~ (大正14年)
1月 日ソ基本条約締結~国交正常化
3月 ラジオ放送の開始
普通選挙法成立(25歳以上の男子全員)
4月 治安維持法成立~社会主義・共産主義はダメ!
第1次世界大戦が民主主義(連合国)と専制主義(枢軸国)の戦いと評されたこともあり、日本でも大正デモクラシーという民主主義運動が展開されます。またロシア革命の影響で共産主義勢力も日本で産声をあげます。
普通選挙制度は大正デモクラシーの民主主義運動の反映でしたが、治安維持法は社会主義・共産主義勢力を抑え込むための施行でした。
日本の普通選挙制度は他の欧米先進国と比べてそれほど遅いものではありません。ちなみに女性参政権はニュージーランドが世界初(1893年)で、中国の普通選挙はなんちゃって普通選挙です。(共産党一党独裁のため)
~ 1926年 ~ (大正15年-昭和元年)
7月 蒋介石が北伐を開始。中国全土統一を目指し広東で挙兵。北へ進軍
12月 大正天皇崩御~昭和改元
【若槻 禮次郎 内閣(第1次)】(1926年1月~1927年4月)
~ 1927年 ~ (昭和2年)
3月 金融恐慌 4月 南京事件(1927年)からの漢口事件
これらの事件は蒋介石の北伐が開始されたことに起因します。
ワシントン体制下の九カ国条約の中国に対する内政不干渉を貫き過ぎた内閣と幣原外相は、この頃から軍部と対立するようになります。
この事件を背景にしたアメリカの映画が「砲艦サンパプロ(1966)」
←クリックで拡大します) 好きな映画(余談ですね)。
北へ進軍してくる蒋介石軍を恐れた日本は、山東半島の日本人居留区の同胞保護の目的として、三度にわたって山東半島へ出兵します。
のちの満州事変の火種がここにあります。蒋介石の北伐とのバッティングです。日本はやっとのことで日露戦争に勝ち、北の脅威を本土から遠ざける緩衝地帯として権益を手に入れた満州を手放すわけにはいかなかった。また多くの日本人が満州に入植・居留していました。この入植はアメリカが日本人移民を禁止したことと無関係ではありません。
清朝王朝が満州族だったことも皮肉です。満州は万里の長城の外であり、本来は中華の領域ではなかったのです。清朝王朝以降に中華王朝の領域だと考えるようになっていて、むろん蒋介石もそう考えていたでしょう。また蒋介石は中国人の民族主義の敵として列強国のなかで日本だけをとりわけ重視して敵愾心を煽りました。抗日は民衆を煽りやすかったのでしょうね。それは今の中華人民共和国も変わっていません。
6月 第1次山東出兵
【田中 義一 内閣】(1927年4月~1929年7月)
4月 モラトリアムで金融恐慌沈静 5月 済南事件
~ 1928年 ~ (昭和3年)
4月 第2次山東出兵 5月 第3次山東出兵
6月 張作霖爆殺事件 8月 パリ不戦条約
張作霖の爆殺は関東軍のいち参謀による独断専行で、これをきっかけに満州を軍事占領し、日本寄りの新政権をつくるつもりでした。しかし、実力者の張作霖の後を継いだ息子の張学良は中国国民党に傾倒し、満州の中国人の間では抗日の気運が一層高まり、計画は大失敗となりました。
田中内閣はこの事件(満州某重大事件)の善後措置に失敗したため総辞職します。なぜ「某」なのかというと1945年以降まで犯人名が公開されなかったからです。軍人なので軍部が秘匿してムニャムニャ◎&?!としました。
【浜口 雄幸 内閣】(1929年7月~1931年4月)
~ 1929年 ~ (昭和4年)
10月 世界恐慌~ウォール街で株価大暴落
この時代、三度の恐慌があったり米騒動や関東大震災があったりで暗い時代なのかな?と感じますが、そうではありません。資本主義が飛躍的に発展し、経済も発展、都市化と大衆化がすすんだ時代です。時代の先端をいくモボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)や大正ロマンはその象徴で、日本初の地下鉄も1927年に開業しています。
ラジオ放送の開始やジャーナリズムの発展もそうです。大手の新聞四紙の発行部数は各紙100万部を超え、月刊の雑誌も大発展(100万部を超える雑誌も!)、週刊誌もこの頃から刊行されるようになりました。
~ 1930年 ~ (昭和5年)
4月 ロンドン海軍軍縮条約
この条約の米英日の大型艦保有率は(10.10.6)と米英としてはかなり譲歩したものでしたが、海軍はこれを不服として、政府の統帥権干反と激しく批判します。統帥権について、『兵力量の決定』にまで拡大解釈したものです。
統帥権の部分について大日本帝国憲法(明治憲法)に重大な欠陥があったことが、軍部暴走の一因でした。
浜口内閣は反対論を押し切って天皇陛下によるロンドン海軍軍縮条約の批准を実現しますが、これがもとで11月に東京駅で国家主義団体の青年に狙撃され重傷を負い、翌年4月に内閣総辞職。浜口氏は8月に死去します。幣原喜重郎外相の協調外交は行き詰まりました。
ときの岡田内閣は圧力に押され『国体明徴声明』を出して、政府も天皇機関説を否定しますが、美濃部博士の著書は発禁処分になり、岡田首相自身も翌年(1936年)にニ・ニ六事件で襲撃されます。(本人は隠れていて無事)
大日本帝国の立憲主義の理念は否定され、立憲政治は骨抜きにされ、軍部の暴走に歯止めが効かなくなっていきます。欧米列強の狡猾で老練な手管に翻弄される日本の外交に日本の民衆が失望していたのは事実で、軍部は一定の世論の支持を得ていました。だからこそ軍部は好き勝手ができた。「東京朝日」「大阪朝日」「大阪毎日」「東京日日(現・毎日)」の四大新聞もさかんにこういった世論を煽りました。そのほうが部数が売れるからです。
なかでもどうしようもないのがこういった連中です。
極左と極右がそれぞれ左と右にあまりに逝き過ぎてウラで出会って手を組んでしまった。
治安維持法で検挙された人の90%が転向し、官僚などに積極的に登用されたそうです。
ナチスやソ連のように反体制を処刑・粛清しなかったのですが、扱いをあやまりましたね。
懐柔策だったのでしょうが、こんな連中を信用して政府中枢に登用すべきではなかった。
『先の大戦について「深い反省」』
というのは、第1次大戦後のワシントン体制からの経過を包括的に捉えて、対米英開戦に踏み切らざるを得ない状況になってしまったことについて、省みることが重要であり、ある特定の文言を加えるか否かなんてのはまったくもってナンセンスな論議です。
初めてアメリカ合衆国議会の上下両院合同会議で行われる日本国首相の演説も、夏に発表される戦後70年談話も、過去の深い反省にもとづき、現代国際社会での日本の立場を明確にした、未来志向な内容になることをおおいに期待しております。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
次の記事:→《 日本近現代史研究~⑦「日露戦争とポーツマス条約」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑤「満州事変と支那事変」 》
画像引用元
7枚目: 映画公式ポスター(日本版)
13枚目: テレビ朝日のニュース映像
14枚目《今年のバンドン会議(アジアアフリカ会議)の演説》演説全文はここをクリック(外務省公式)
上記以外: 詳説日本史研究(山川出版社) 398頁~436頁
日本近現代史研究~インターミッション
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
メディアが切り取った映像で恣意的な報道をするので、
ノーカット版映像と原稿全文のリンクをまとめました。
画像もいろいろ貼りました。
当然ですが、すべて無料です。会員登録も必要ありません。
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)
60周年記念首脳会議
における安倍内閣総理大臣スピーチ
公式はこちら☟
kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0422speech
全文(総理官邸:公式)☟
kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0422speech.html
日米共同記者会見-平成27年4月28日(現地時間)
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg11688
全文(外務省:公式)☟
mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4_001148.html
米国連邦議会上下両院合同会議演説
-平成27年4月29日(現地時間)-
nettv.gov-online.go.jp/prg/prg11689
全文(外務省:公式)☟
(和文)http://www.mofa.go.jp/mofaj/na/na1/us/page4
(英文)http://www.mofa.go.jp/na/na1/us/page4e
この歴史的な総理演説について英語力を辛辣に批判しているメデイア勢力や国会議員がいるようだが、アメリカ連邦議会の議員のおおかたの受け止めとしては、『日本訛り(Japolish)のごつい英語だったが、彼の言葉は我々の心を強く打った。素晴らしい演説だった。』 でしょうね。 言語なんて伝わればいんだよっ!!
そうでなければ12回以上のスタンディングオベ―ションが起きるわけがない。
こんな握手攻めや満面の笑顔もない。
米政府も米議会も総理がガチっと抑えて今後の動き☟どうなりますでしょうか?
6月:G7先進国首脳会議(ドイツ)
6月:パク大統領訪米
安倍総理の「戦後70年談話」発表
9月:習主席訪米
G7での総理の立ち位置は中心に近付くでしょうね。一昨年・昨年は大外だった。
あの「最低でも県外」「腹案がある」「トラスト・ミー」の頃の冷えた日米関係から、
よくぞここまで関係回復できたとほっとしています。5年半前ですか。長かったよ。
~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~
日本近現代史研究~⑦「日露戦争とポーツマス条約」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
日清戦争は日本の圧勝でしたが、遼東半島の領有をめぐって三国干渉で日本が露仏独と対立しまして、それが日露戦争の簡単な要因です。次回記事でまた詳しく。また、日露戦争に至る経緯を語る際に日清戦争後の清国について書いておく必要があると判断しました。なるべく簡潔に書いておきます。
【戊戌の政変】
清国を改革して近代化する動きが若き清国皇帝・光緒帝(1858~1927)のもとで起こりましたが、西太后(1835~1908)ら保守派のクーデターによってつぶされました。光緒帝は幽閉され、変法派(改革派)の多くは日本など海外に亡命しました。
【義和団事件(北清事変)】
山東省で結社された宗教的武術的秘密結社である義和団が清国民衆の熱狂的支持を受け民衆とともに暴動をおこしました。スローガンに「扶清滅洋(清国を扶け西洋人を撃滅する)」を掲げた暴動は拡大し、首都北京に大挙して入城し(1900年6月)、義和団と暴徒は誰彼となく外国人を襲い列国公使館を軒並み包囲しました。
そして実は、西太后ら保守派の清国政府が陰に日向に義和団と暴徒を煽っていました。(筆者注:)なんか現代にかぶる(ーー゛))
【北京議定書】
欧米列強は清国在留同胞の保護を名目に軍隊を派遣し、義和団の乱を徹底的に鎮圧しました。
これを8カ国共同出兵といい連合軍のはしりとなりました。
(画像、左より、英・米・露・英領インド・独・仏・オーストリア=ハンガリー・伊・日の兵士)
1901年清国は8カ国と北京議定書を締結し、莫大な賠償金(9億8千両)を支払う羽目になり、また国内に列強国守備兵が常駐することを認めさせられました(北京駐兵権)。
北京・紫禁城内の連合軍 ☟
ロシアは出兵していた10数万の軍隊を撤退させず満州にとどめ事実上満州を軍事占領。そりゃ日本ゲキ怒だよ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【日露戦争】
ロシアに対しては日英同盟協約を後ろ盾に満州からの撤兵を強く要求し、ロシアも1902(明治35)年4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束した。しかし、そののちこの協定は実行されず、ロシアはかえって韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めた。
日本国内では、対露強硬論の気運が高まっていたが、とくに大きな役割を果たしたのは新聞であった。
ロシアが清国との協定で、満州からの第2次撤兵を約束した期限は1903年10月8日であったが、実行されなかったため、『大阪毎日新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『二六時報』など発行部数が一日10万部前後の有力新聞は、ほとんど対露開戦論一色となった。
そして、対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを激しく弾劾しはじめた。
(注)
①ラジオの日本初放送は1925年でこの当時ラジオ放送はない。メディア媒体は新聞などの出版物と口コミのみ
②新聞のやり玉となった反開戦派の代表格は桂太郎首相と伊藤博文元老であった。
日本側の主たる狙いは、満州を日本の利益範囲外と認めるかわりに、韓国における日本の軍事的・政治的優先権を確立することにあったが、ロシア側はこれを全く認めず、日露交渉はまったく行き詰った。
日本は1904(明治37)年2月、元老と政府・軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定し、日本海軍の旅順攻略と陸軍部隊の仁川上陸によって、日露戦争を開始した。
強国ロシアとの戦いは、日本にとって文字通り国家と国民の命運を賭けた戦いであった。
日本政府(第1次桂内閣)は開戦にあたって、この戦争がきわめて苦しい戦いになることを予測した。
そして、その巨額の戦費にあてるため、高橋是清(1854~1936)日銀副総裁を派遣してアメリカや同盟国のイギリスで外国債を募集した。
また、金子堅太郎を特使としてアメリカへ派遣し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(1858~1919)に和平の仲介を依頼した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日露戦争の戦費は約17億円で当時の国家予算歳出分の数年分にあたります。そのうち8億円が英米で募集した外国債でしたが、実はロシアも外国債を発行して戦費に充てていました。
開戦当時は世界の大部分の国が日本の敗北を予想していたので、日本の外債発行はロシアに比べて不利な条件でしか発行できず、募集もままなりませんでした。ところが戦局が日本優勢になってくると状況が逆転しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
立憲政治を実現し国内改革に成功していた日本は、国民の支持のもとに総力をあげて戦うことができたが、専制政治(ロマノフ王朝)がおこなわていたロシアは、国内でこれに反対する運動が高まり、十分な戦力を発揮できなかった。
そのため戦況は、軍事的には日本の優勢のうちに進展した。
陸軍は遼陽・沙河の会戦でロシア軍を撃破し、数カ月の激しい攻防戦の末、1905(明治38)年1月にはロシアの東アジア最大の海軍基地である旅順をおとしいれ、さらに3月には奉天の会戦で勝利を収めた。
また、海軍も同年5月の日本海海戦で東郷平八郎(1847~1934)の指揮する連合艦隊が、ヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた。
(右画像)
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮を執る東郷大将
当時、ロシア国内では、ツアー(ロシア皇帝)の政府の圧政に対する民衆の反対運動が激化しており、1905年1月には、首都ペテルブルグで血の日曜日事件がおこり、各地でストライキが頻発するなど、情勢ははなはだ険悪であった。
しかし、日本も軍事的勝利は得たが、兵器・弾薬・兵員の補充が困難となり、戦費調達もおぼつかなくなって、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていた。
そこで、日本海海戦の勝利の直後、日本政府は正式にアメリカ大統領に和平の仲介を依頼した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
血の日曜日事件は、のちにロシア第一革命の発端とされました。映画にもなった‘戦艦ポチョムキンの叛乱’がこの年の6月。↑クリックで説明文にとびます。
バルチック艦隊が出港したのは1904年10月15日です。これより遅れると港が凍って出港できなかったんですかね?w さて、この当時ヨーロッパからアジアに至る貿易航路の制海権は大英帝国がほぼ掌握していました。日英同盟協約に基づき英国は動きます。
ジブラルタルは現在でもイギリス領でイギリス軍が常駐しています。
のちに「3C」と呼ばれるカイロ(スエズ運河)・ケープタウン(喜望峰)・カルカッタ(インド)もイギリス領でした。
シンガポールとマラッカ海峡もイギリス領でした。
海上封鎖はしていません。
軽量級の軍船はジブラルタルからスエズを通っています。ただし航路上にあまた有るイギリス領植民地の港には一切寄港できなくしたのです。これは強烈に効きました。
当時のロシアの友好国だったフランス領の寄港地は少なく、バルチック艦隊は補給・修理・休息もままならぬまま、半年以上もかかって日本海に到達しました。艦も兵も疲弊しきっていたのです。
むろん、このことによって、連合艦隊の偉業ならびに東郷平八郎元帥の名声に傷がつくようなものではありません。大国ロシアの屈強な艦隊に開国から50年しか経過していない新興国日本の海軍が圧倒的勝利をおさめたことは世界を震撼させました。
日露戦争に日本が勝利したことは、日本国内および世界中に多大な影響を及ぼしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【日露講和会議】
かねがね満州に対するロシアの独占的支配を警戒し、日露両国の勢力均衡を望んでいたアメリカ大統領セオドア=ルーズベルトは、日本政府の意向を受けてこの機会に和平の斡旋に乗り出し、ロシアもこれに応じた。
アメリカのポーツマスで開かれた日露講和会議は、ロシアが強い態度に出たため難航したが、1905年9月、日本側首席小室寿太郎外相とロシア側首席全権ヴィッテ(Vitte,1849~1915)との間で、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。
これによって日本はロシアに、
(1)韓国に対するいっさいの指導・保護・監督権の承認
(2)旅順・大連の租借権と長春・旅順間の鉄道およびその付属の権利の譲渡
(3)北緯50度以南の樺太の割譲
(4)沿海州とカムチャッカの漁業権の承認
などを認めさせ、また満州(日本の租借地などを除く)からの両軍の撤兵、清国に対する機会均等なども取り決められた。
こうして、日本は約110万の兵力を動員し、死傷者20万を越すという大きな損害を出しながら、ようやく日露戦争に勝利を収めた。
【日比谷焼打ち事件】
しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。
東京では河野広中ら反政府系政治家や有力新聞①の呼びかけもあって、講和条約調印の当日、「屈辱的講和反対・戦争継続」を叫ぶ民衆が、政府高官邸・警察署交番・講和を支持した政府系新聞社・キリスト教会・などを襲撃したり、放火したりした。
(画像:1905年9月5日、東京日比谷公園でひらかれた講和条約反対の決起集会)
いわゆる日比谷焼打ち事件である。政府は戒厳令を発し、軍隊を出動させてこの暴動を鎮圧し、講和条約批准に持ち込んだ。
①『東京朝日新聞』『大阪毎日新聞』『万朝報』などの有力新聞は、日露講和条約の条件が明らかになると、いっせいにその条件が日本にとって不十分であるとし、「屈辱的講和反対」「戦争継続」を主張するキャンペーンを展開し、なかには桂首相・小村外相を‘探露’(ロシアのスパイ)と非難する記事を載せた新聞もあるほどであった。
日露戦争は、世界列強の複雑な利害関係を背景として行われただけに、国際政局に大きな影響をおよぼし、とくに東アジアにおける国際関係は大きく変動した。
東アジアの片隅にある有色人種の小国日本が、予想に反して白人の大国ロシアとの戦いに勝利を収めたことは、白人不敗神話を打ち破って世界に衝撃を与え、中国・インド・トルコ・フィンランドなどの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今も昔も新聞メディアというのはあらぬ方向に大衆を煽るものなのですね。気をつけましょう。この当時まだラジオ放送はありません。マスメディアと言えば新聞などの出版刊行物しかなく、拡散は口コミでした。(日本でのラジオ初放送は1925年)
極東アジアでの南下が挫折したロシアは、またしてもヨーロッパでの南下に力を入れ始めます。そしてトルコで民族運動が高まったことにより、オスマントルコ帝国の力が更に削がれました。この2点は第一次世界大戦の遠因になっています。
英国留学中のネル―少年(インド初代首相・当時16歳)は日露戦争の日本の勝利に大きな感銘を受け、日本に関する新聞記事切り抜き、また、日本についての英文の著作を好んで読みふけったそうです。
フィンランドは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15)で、スウェーデン王国の領土からロシア帝国の領土になってました。フィンランドの独立はロシア革命後(1917)で、ロシアへの対抗から第二次世界大戦では枢軸国側でした。あまり知られていません。
日露戦争の勝利によって、日本は欧米列強に認められ、列強国の仲間入りを果たしました。そのことを如実に現わしているのが、明治維新から日本が取り組んできた『不平等条約の改正』の実現です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【条約改正】
第2次伊藤内閣になって、外相陸奥宗光(1844~97)のもとで、改正交渉はようやく本格的に軌道に乗った。
イギリスは、シベリア鉄道敷設を進めていたロシアが東アジアに勢力を拡張することを警戒し、それと対抗する必要があった。
そこで憲法と国会をはじめ近代的諸制度を取り入れ、国力を増大つつある日本の東アジアにおける国際的地位を重くみて条約改正に応じた。
1894(明治27)年7月、日英通商航海条約の締結である。
(日清戦争の開始と同年同月です)
その内容は領事裁判制度の撤廃・最恵国条款の相互化のほか、関税については日本の国定税率を認めるが、重要品目の税率は片務的協定税率を残すというもので、この点ではまだ不十分であった。
イギリスに続いて欧米各国とも新しい通商航海条約が結ばれ、いずれも1899(明治32)年に発効した。
1911(明治44)年、改正条約の満期を迎え、外相小村寿太郎(1855~1911)は再び交渉を始めたが、日本が日露戦争の勝利を経て国際的地位を高めているだけに列国の反対もなく、関税自主権の完全回復が実現した。
(画像上:陸奥宗光 画像下:小村寿太郎/日本が不平等条約を結んでいたのは、英米仏露蘭)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
列強国の仲間入りを果たした日本に対して、欧米列強国の日本に対するアタリは強くなっていきます。さながら『おい日本!これからは本気出して対応にあたるからな!!』です。
日本列島防衛線の構築という初期の目的は達成されましたが、欧米列強国のあいだの仁義無用の熾烈な争いに日本は踏み込んでいかざるを得なくなってしまいました。そういう時代だったのです。
この時代、白人国家以外で独立の体裁を守っていたのは、日本・タイ・トルコ・イラン・エチオピア・リベリアだけです。イランに関してはのちに体裁だけで半植民地化されます。またエチオピアもイタリアに侵略されてます。
(リベリアは特殊な例で、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国されました。)
~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
6枚目/外務省公式HP
7枚目/http://heiwa.yomitan.jp/4/3207.html
そのほかはウイキペディアより引用しました。
今回の記事は『朝鮮半島史』の記事の焼き直しです。
次の記事:→《 日本近現代史研究~⑧「日清戦争と下関条約そして三国干渉と日英同盟」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑥「第1次世界大戦とワシントン体制」》
日本近現代史研究~⑧「日清戦争と下関条約そして三国干渉と日英同盟」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
清国に対して、日本は1871(明治4)年、日清修好条規・通称章程などを結んだ。同年、台湾に漂着した琉球漁民が原住民に殺される事件がおこった。
清国は台湾を「化外の地(けがいのち)」として、その責任を取ろうとしなかったので、事件の処理をめぐって交渉は難航し、1874(明治7)年、日本政府は西郷従道(つぐみち・1843~1902)のもとに軍隊を台湾に派遣した(台湾出兵)。
筆者:注) 化外の地 ↓
この事後処理のために、大久保利通が全権として清国と交渉し、イギリス公使ウェールズの調停もあって、清国は日本の出兵を義挙として認め、償金50万両を支払って解決した。
17世紀初頭以来、琉球は薩摩藩(島津氏)の支配下にあったが、名目上は清国にも属し朝貢するという両属関係にあった。
明治政府は琉球を日本の領土とする方針を定め、1872(明治5)年には琉球藩をおき、琉球王尚泰(しょうたい・1845~1901)を藩王として華族に列し、ついで1874(明治12)年には軍隊を派遣して廃藩置県を断行し、沖縄県を設置した(琉球処分)。
清国は琉球に対する宗主権を主張してこれに強く抗議し、前アメリカ大統領グラント(Grant,1822~85)は、宮古・八重山の先島諸島を沖縄県から分離して清国領とする調停(先島分島案)を示したが、清国側はこれを認めなかった。
その後も紛争は続いたが、日清戦争における日本の勝利によって、琉球帰属問題は事実上、日本の主張通りに解決した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前アメリカ大統領グラントの調停案は日本側もダメですね。「宮古・八重山の先島諸島を沖縄県から分離して清国領とする」。この調停が成功して且つ日清戦争がなければ、尖閣諸島は?・・・・、想像するのはやめておきますw
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【下関条約】
1895(明治28)年4月、伊藤博文首相・陸奥宗光外相が全権委任となり、清国全権李鴻章とのあいだに日清間の講和条約が調印された。これが下関条約である。この条約によって清国は日本に対して
①朝鮮半島の独立の承認
②台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲
③賠償金2億両(日本円で約3憶一千万)の支払い
④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港・租界での治外法権などの承認
などを約束した。こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第一歩を踏み出した。
それまで‘眠れる獅子’といわれていた清国が、名もない東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼んだ。欧米列強はこぞって中国再分割に乗り出した。
【三国干渉】
なかでも、南満州へ進出の機会をうかがっていたロシアは、日本の進出を警戒して、下関条約が結ばれるや、ただちに、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するように日本政府へ申し入れてきた。
これがいわゆる三国干渉である。
日本はまだ、これらの大国に対抗できるだけの実力がなかったので、政府はやむなく清国から3000万両(約5000万円)の償金を追加して、遼東半島の返還に応じることにした。
国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉が叫ばれるようになり、政府もそうした気運のなかで、軍備拡張と国力の充実をはかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三国干渉に当時の日本人はみんなビックリしたでしょうね。「それはないだろう?」と。欧州諸国はふだん仲が悪くても利害があえば簡単に結託します。ヨーロッパの国同士は戦争ばっかりしてますから、平気でこのくらい狡猾に寝首を掻いてきます。
英仏はロシア嫌いですが、英仏も長年のライバル関係にあり、フランスは、せっかく掘ったスエズ運河を英国資本に横取りされた腹いせに、ロシアのシベリア鉄道に投資したのです。国民性も天邪鬼と揶揄されますし。
ドイツとイタリアは訳あって統一国家の形成がおくれました。明治維新と同じ時期です。英仏らのように植民地経営に乗り出したいのですが、もう残っているところがあまりない。ドイツは山東半島に進出を企てていましたから、対岸・目と鼻の先の遼東半島日本領有は困ったというわけです。
ロシアは三国干渉に応じた清国に対し、お礼にシベリア鉄道を満州経由にしました。このとき露清密約が締結(1896)されてます。この密約は日本に対する軍事同盟の性格を持っていました。
この頃、自国大陸にフロンティアがなくなったアメリカは、中米と太平洋に進出しハワイ王国を併合・スペインと戦争してフィリピンとグアムを略取しました。(これに日本が口出ししなかったのは、のちの桂-タフト協定につながるなにかがあったのだと思います。)
ドイツは1898年に宣教師殺害事件を口実に山東半島の青島(チンタオ)を租借します。これに対抗する形でロシアは日本から掠め取ったような遼東半島の旅順・大連を租借します。念願の不凍港です。ドイツとロシアに対抗してイギリスが九竜と威海衛(いかいえい・山東半島の東端)を租借します。
もう一触即発状態でした。威海衛(いかいえい)は重要な軍事拠点であり、日清戦争の戦闘で有名な場所です。まんまと英国さんに取られてしまいました。
この状態からドイツだけハバにされたのが第1次世界大戦の東アジアでの勢力図になります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【日英同盟】
ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府内には、2つの意見が生じた。
1つは伊藤博文・井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認める代わりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換によって、日露間の利害を調整しようとするものであった。
これに対し、桂太郎首相・小室寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えた。
勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず、‘光栄ある孤立’を保ってきたイギリスではあったが、当時バルカン半島や東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。
協約の内容は、
1)清国と韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国、およびイギリスの清国、における政治的・経済的利益を互いに擁護し、
2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、
3)さらに2国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる。
というものだった。
(後略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
3)は、ロシアに加担する国があったら「おれら英国紳士が出てって相手するよっ」という暗黙の脅しです。露清の密約なんぞ英国諜報部につつぬけでした。日本としては清国かドイツを巻き込んで英国の参戦に持ち込みたかったな。どうなっていたでしょうか?
今回の記事の画像の引用元
2枚目→http://heiwa.yomitan.jp/4/3206.html
3枚目→http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-date-20110103.html
今回の記事は『朝鮮半島史』の記事の焼き直しです。
次の記事:→《 日本近現代史研究~⑨「明治維新の日本防衛戦構築」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑦「日露戦争とポーツマス条約」》
日本近現代史研究~⑨「明治維新の日本防衛戦構築」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
前回の記事で沖縄・南西諸島を巡っての、日本と清国(中華帝国)の領土防衛戦のせめぎ合いを書きました。朝鮮半島あるいは北方でも領土防衛戦のせめぎ合いが、もちろんのことありましたので、この記事で書いていきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【朝鮮半島】
明治維新以来、日本の対アジア外交の中心は朝鮮に向けられていた。
欧米列強の東アジア進出に強い危機感を抱いていた日本政府は、朝鮮が列強、とくにロシアの勢力下に入れば日本の国家的独立もまた危なくなると恐れた。
そしてそれ以前に(筆者注:ロシアに朝鮮半島を奪われる前に)日本の主導権で朝鮮を独立させて日本の影響下におき、列強と対抗しようと考えていた。
征韓論や日朝修好条規の締結もそのあらわれであった。
【征韓論】
朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒絶した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬姿勢をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。
欧米から帰国した岩倉具視使節団一行から強く反対され、征韓論派の西郷隆盛らの参議は総辞職した。
(明治六年の政変)。
国力を高める方が先であるという使節団の判断。
(1873年)
【日朝修好条規】
日本の軍船がソウル漢江近郊の江華島で朝鮮から砲撃を受けた江華島事件をきっかけに、李氏朝鮮を開国させて日朝で結ばれた条約。李氏朝鮮側にとって不平等条約である。また朝鮮は同様の条約を欧米列強とも締結した。(1876年)
日本のこのような朝鮮政策は、朝鮮を属国とみなして宗主権を主張する清国と、しだいに対立を深めることになった。李氏朝鮮内では日本派と清国派の激しい対立抗争が激化するが、ややこしいので割愛。別連載の朝鮮半島史に詳しく記しました。
【福沢諭吉の脱亜論】
福沢諭吉は、朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、朝鮮の改革派を援助し、彼ら自身の力で朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。
しかし、1884(明治17)年、清国の軍事介入で改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、福沢の期待は失われた。
福沢は翌年寄稿した社説「脱亜論」にて、「近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、日本は独自に近代化を進めて西洋諸国の仲間入りをし、朝鮮・清国にも西洋流のやり方で接するほかはない。」と論じた。
そんなわけで
日清戦争(1894~5)、日露戦争(1904~5)、となりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なんでロシアが朝鮮半島に?ということなのですが、冬でも凍らない不凍港(軍港・貿易港)がどうしても欲しいというロシアの伝統的悲願のためです。ロシアは清国の弱体化に付けこみ、1960年に沿海州を獲得、ウラジオストック港を建設して東方進出を企みます。ウラジオストックとはロシア語で『東方の支配』という意味です。
日本・清国・ロシア、は朝鮮半島をめぐって戦争になりました。今から思えばみんな国策を誤りましたねw 関わってはいけない。
日清戦争は日本と清国の戦争、日露戦争は日本とロシアの戦争、なのですが、朝鮮半島は主戦場になりました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は明国(中華帝国)を見据えてのものでしたが、このときも朝鮮半島は主戦場になりました。
1910年から1945年までは、日本に併合され、日本統治時代となりました。
ついでにいうと、朝鮮戦争でも半島全土が戦場になりました。
このあたりは、日本に対してただならぬ恨みを持つ韓国人・朝鮮人の民族性に於ける背景とも取れますが、だからといって反日のためならなにをやっても許される「反日無罪」という考え方はとうてい理解できるものではありません。
また「千年怨む」という朴槿恵-韓国大統領の発言(2013.3月)に至っては、国際社会でも失笑物でしょう。
それではロシアとの関係で北方のほうもみていきます。ついでに太平洋方面も
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【樺太と千島列島】
ペリーについでロシアのプチャーチンも再び来航し、下田で日露和親条約(1854年)を締結した。
国境については千島列島の択捉島以南を日本領、得撫島(ウルップ島)以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地として境界を決めないことにした。
樺太(現・サハリン)の領有問題は、明治政府も引き続いて交渉にあたっていた。
ロシアの南樺太への進出が強まるにつれ、政府部内には北海道開拓に全力を注ぐために樺太を放棄しようという意見が強くなり、樺太・千島交換条約(1875.明治8年)に調印して、樺太全土をロシアにゆずり、その代償として千島列島全島を日本領と定めた。
(筆者注:のち日露戦争の講和-ポーツマス条約で日本の南樺太領有が決まる)
【小笠原諸島】
小笠原諸島については、1876(明治9年)、アメリカ政府がそれが日本領であることを承認して解決をみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
当時まだ航空機が発明されていません。20世紀になってからです。当時は小笠原諸島のような離島は軍事拠点として重要視されなかったのでしょう。補給港・避難港としてならば日本を開国させているのでそれで十分とアメリカは判断したと思います。でなければ簡単にアメリカが折れるわけがない。
江戸幕府はペリ―艦隊にいきなり江戸湾近くの喉元に軍船で乗り付けられ、翌年に有無をいわさず開国させられてしまったのです。
アメリカ合衆国大統領の親書を携えたペリー東インド艦隊司令長官
による【力による現状変更】でした。
二度と外国にこんなことをされてはかなわんということなのです。
東インド会社が引っ掛かりますか?
ペリーさんはインドにあったアメリカの東インド会社から東へ航路をとって来航してきました。当時太平洋航路はまだありません。米-メキシコ戦争の結果カリフォルニアがアメリカに割譲されたのは1848年です。(わずか5年前)。
そのあと南北戦争です。
ベリー艦隊-黒船来航は突然起こったように感じますが、そうではありません。外国船の来航はかなり以前からあり、江戸幕府もそれなりに対応してきました。ですが、現状認識がムチャムチャ甘かったのです。まさかこんな強硬手段にでられるとは!?でした。
ゆえに私は、現在の外交安全保障に照らし合わせても、
「憲法9条があるから外国の軍隊が攻めてくることはない」
「たとえ攻めてこられても自国の自衛権のみで対処できる」
という意見にはまったくもって賛同できません。傾向と対策を練り、充分な備えをしないといけないと思います。備えがないとつけこまれます。共通の敵国にはその国の脅威に晒されている国同士が同盟を結んで対処するべきです。
幕末・明治維新の先人たちの国防の努力には格別の尊崇と感謝をしています。しかし次もまたあんなに都合よく旨くいくとは限らない。欧米以外のアジア・アフリカの国のなかで、欧米に武力干渉されたのに、自力で近代化を果たし独立を守ったのは日本だけです。
つぎの記事で江戸時代末期の外国船来航と江戸幕府の対応について書きます。幕府も長年それなりに頑張ってはいたのです。ですがアメリカの武力干渉による強制的開国という事態を避けられなった。
~ ~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~ ~
今回の記事の画像の引用元
1.6.7枚目→ウイキペディアより
上記以外の画像→手持ちの詳説日本史研究(山川出版社)より
次の記事:→《 日本近現代史研究~⑩最終話「江戸幕府の外交防衛政策の破綻」》
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑧「日清戦争と下関条約そして三国干渉と日英同盟」》
日本近現代史研究~⑩最終話「江戸幕府の外交防衛政策の破綻」
当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
江戸時代の外交防衛政策は簡単に言えば鎖国です。三代将軍家光の時に完成しました(1641年)。島原の乱や中華王朝の明清交替と同じ時期です。家康公は朱印船などむしろ海外貿易には積極的だったと言われています。
長崎の出島を通じてオランダと清国のみ交渉を持っていました。また近隣国とは、薩摩藩島津氏を通して琉球、対馬藩宗氏を通じて李氏朝鮮、と交渉を持っており、また蝦夷地のアイヌとは松前藩を通して交渉をもっていました。
日本人の海外渡航は全面禁止です。漂流は別。
その鎖国が崩れて、江戸幕府は力による現状変更で開国させられてしまうわけですが、それまでには多くの過程と言うか経過と言うか、あります。
←手持ちの「詳説日本史研究 山川出版社」にて表にまとめてありましたので引用。
ひとつひとつ記載を拾って経過を追っていきます。
ほんとうに、欧米列強の海外植民地にされなくてよかったなあと思うところであります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【1778 ロシア船.厚岸に来航】
最初に日本と接触を持ったのはロシアで、シベリア開発のため日本との通商関係の樹立をめざし、日本人漂流民を保護して日本語の習得をはかった。皇帝(ツアー)エカテリーナ2世(1729~96)のもとで積極的な対外進出策をとり、その勢力は千島列島を南下し、1778(安政7)年、蝦夷地の厚岸で松前藩に通商を求め、翌年に松前藩が拒否する。
(厚岸は現在の北海道厚岸町・釧路市の東隣りに位置します。)
【1792 ロシア使節ラスクマン.根室に来航】
ロシア使節としてラスクマン(1766~1803?)が根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光太夫(1751~1828)らを日本に送還するとともに通商を求めてきた。幕府は、外交交渉は長崎以外では行わないので長崎に行くように回答し、長崎港への入港許可症である信牌(しんぱい)を与えた。
ラスクマンが交渉の場で、江戸湾に行きたいと強く要求したことが契機となって江戸湾の防備が検討され、海岸防備策が模索され始めた。
(大黒屋光大夫は皇帝エカテリーナ2世に謁見していて、ロシア語も習得していました。伊勢白子は現在の三重県鈴鹿市)
【1804 ロシア使節レザノフ.長崎に来航】
ロシア使節レザノフ(1764~1807)が、ラスクマンの持ち帰った信杯(しんぱい)を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めたが、幕府は、朝鮮・琉球・中国(清国)・オランダ以外とは新たに外交通商関係を持たないのが祖法であるとして拒否した。このときの幕府の対応は冷淡であった。
【1806 ロシア船.翌年にかけ樺太・択捉などを襲う】
レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、ロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこり、特に択捉守備兵が敗走したことから、国内は騒然とした雰囲気になった。
【1808~9 間宮林蔵、樺太・沿海州を探査】
幕府は松前・蝦夷地・樺太を直轄にして松前奉行をおいたが、樺太はその周回すら不詳のため、間宮林蔵(1775~1844)らに探査を命じた。
間宮は樺太が島であることを確認するとともに、対岸の沿海州に渡り、清国の役所であるデレンまで足を踏み入れた。
ロシアとの緊張関係はなおつづき、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを捕え、箱館ついで松前に監禁した。
ロシア側も報復として、択捉航路を開拓した淡路の商人高田屋嘉兵衛を捕えた。
1813(文化10)年にゴローウニンを釈放して、ロシアとの緊張関係は改善された。
(1812年にナポレオンがロシア遠征を行い、モスクワを占領、冬に撤退しています。)
【1808 フェートン号事件】
イギリス軍艦フェートンが長崎港に侵入し、オランダ商館員を人質にとって薪・水・食糧を強要した。長崎奉行は責任をとって自害し、長崎警固の役を負っていた佐賀藩主は警備怠慢の責任を問われ処罰された。
幕府は、懸案であった江戸湾の防備に着手し、白河藩・会津藩にそれを命じた。
(この時期のヨーロッパはフランス革命後のナポレオン戦争の真っ最中でオランダは一時的にフランスの属国になっていました。英仏の対立は激しく、イギリスはオランダの東洋拠点を奪おうとしたのです。)
【1818 イギリス人ゴードン.浦賀に来航】
その後もイギリス船は、1817(文化14)年、1818(文政元)年、1822(文政5)年に浦賀に来航し、1824(文政7)年には常陸大津浜に上陸した捕鯨船員、および捕鯨船と交易していた漁民を水戸藩が捕えた。
【1825 幕府.異国船打払令を発す】
それまでは幕府は外国船を穏便に扱い、薪・水・食糧を与えて帰国させる方針をとっていたが、異国船打払令を出し、日本沿岸に来航する外国船を撃退するように命じた。
欧米列強の勢力が日本近海にせまっているときに、この威嚇策は、きわめて危険な政策であった。
【1837 アメリカ船モリソン号.浦賀・山川に来航】
外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し退去させた。
翌年、オランダ商館長がこの外国船がモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。
漂流民を送還してきた外国船をその来航の目的も問わずに打ち払ったことから、洋学者の渡辺崋山・高野長英は、日本を取り巻く国際情勢から幕府の打ち払い政策を厳しく批判した。
(渡辺崋山・高野長英は幕府批判をしたとして幕府に厳しく処罰されました。~蛮社の獄~)
【1840~42 アヘン戦争】
アヘン戦争についての情報は、オランダ船・清国船によりいち早く日本に伝えられ、幕府に強い衝撃を与えた。
【薪水給与令】
1842(天保13)年にオランダ船によって、イギリスがアヘン戦争終結後に通商要求のため軍艦を派遣する計画がある、という情報がもたらされると、幕府は異国船打払令を緩和して薪水給与令を出し、漂着した外国船には薪・水・食糧を与えることにした。
これは、打払令により外国と戦争に危険を避けるためであった。
1844(弘化元)年、オランダ国王が幕府に親書を送り、アヘン戦争を教訓として清国の二の舞になることを回避するために開国してはどうかと勧告した。
幕府は、清国がアヘン戦争に敗れて香港を割譲し、開国を余儀なくされた情報を得ていたが、オランダ国王の勧告を拒否して鎖国体制を守ろうとした。
【フランス船 琉球に来航】
同年、フランス船が琉球に来航、翌年にはイギリス船が琉球に来航、日本や中国(清国)への寄港地として琉球に開国・通商を要求する事件がおこっている。
(ヨーロッパではナポレオンが失脚し、1814年からウィーン体制に。オランダもすぐに独立を回復)
【1846 アメリカ使節ビッドル浦賀に来航】
アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル(1783~1848)が浦賀に来航し、国交と通商を要求したが、幕府はその要求を拒絶した。
しかし、アメリカは1848年にメキシコから割譲したばかりのカリフォルニアで金鉱が発見され西部地方が急速に開けていったことを背景に、太平洋を横断して貿易することを企図し、同時に北太平洋の捕鯨業も活発になっていたので、商船や捕鯨船の寄港地が必要となり、日本への開国の要請はいっそう高まった。
【1853 アメリカ使節ペリー、浦賀に来航。ロシア使節プチャーチン長崎に来航】
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー(1794~1858)は、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府はすでに前の年にオランダ商館長から情報を得ていたが、有効な対策を立てられなかった。
幕府は朝鮮・琉球以外の国からの国書は受領しないという従来の方針を破り、ペリーの強い態度に押されて国書を正式に受け取り、翌年に国書に回答することを約束してとりあえず日本を去らせた。
その直後に、ロシア使節プチャーチン(1803~83)も長崎に来航し、開国と国境の画定を要求した。
ペリーは翌年、軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航し、江戸湾の測量を行うなど軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫った。
幕府はその威力に屈して日米和親条約を結んだ。
(日本が欧米列強に一気に攻め込まれなかった背景には、ヨーロッパ全土を巻き込んだクリミア戦争《1953~56》・アメリカの南北戦争《1861~65》があります)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幕末の外国からの圧力に関して、江戸幕府の場当たり的な対応にはいろいろと考えさせられるものがあります。「異国船打払令」は「自衛の手段」としてどうなんだろう?と思いもありますが、だからといって、なし崩し的に際限なく上陸を許可して薪水食糧を与えてしまっていいのか?という思いもあります。
1844年のオランダ国王による親書~「開国してはどうかと勧告」~を、「新たに外交通商関係を持たないのが祖法」とかたくなに拒否した幕府の態度は、全くもって現状認識ができておらず、もう思考停止に陥っていたとしか思えません。ペリーさんが1953年に浦賀に来航する前年に「オランダ商館長から情報を得ていた」ことも驚きです。
まったく時代遅れになってしまっている「祖法(祖先の始めた法という意味。)」にこだわるあまりに未曾有の国難に際してなんの有効な対策を打てなかったのは教訓にできそうです。むろん江戸幕府の封建体制の政治と現代の議会制民主主義による政治を単純に比較なぞ出来ないことは理解しています。また鎖国は200年以上続きましたが、今年は戦後まだ70年です。時間の経過もかなり違う。
ですが、現行で時代に合わない法は改訂されるべきでしょう。また現代社会の進むスピードは江戸時代よりもはるかに速い。第2次世界大戦後の米ソ冷戦時代が冷戦構造の崩壊で終結してからもう24年が経ち、世界情勢は冷戦時代とは異なる新時代になりました。日本国の外交も防衛も新時代に対応したものにしないといけない。
こちらはネットでよく流れてくる画像です。力で現状変更をしようとする膨張主義の国には備えが必要です。
ほんとうにこの地図は合っているのか?逆さにしてみましょう。
合っています!!
この国は大陸国家なのに海洋進出がしたくてしたくて堪らないのです。この国的にはなんと邪魔な日本列島であり、日本国としては備えをしないといけない。
列強国に蹂躙された清国を恥と考えているのか、明国のときの海洋進出の再興と考えているのか知りませんけど、日本国としては実に迷惑!わたしは、現状にあわない憲法9条の条文は改正すべきだと思いますし、現在国会で審議されている平和安全法制にも賛成の立場です。
「備えあれば」も「人事を尽くして」も国防に関してはまったく出来ていないのがいまの日本国であり、わたくしはたいへん憂いておりますし、こんな状態では天命を待つ覚悟も持てません。
(ある学者先生のお言葉のパクリですw)
~ ~ ~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~ ~ ~
今回の記事の画像の引用元
手持ちの詳説日本史研究・詳説日本史研究(山川出版社)より
前の記事:→《 日本近現代史研究~⑨「明治維新の日本防衛戦構築」》
戦後70年の安倍談話全文「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を」
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0814kaiken
連載記事「日本近現代史研究」のエピローグとして
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
終戦70年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
100年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました。
その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、1000万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして70年前。日本は、敗戦しました。
戦後70年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。ひとりひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
戦後、600万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた3000人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後70年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちは、20世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。21世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
終戦80年、90年、さらには100年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣 安倍晋三