当連載記事の目次 ☟
http://ameblo.jp/egiihson/entry-12020339433.html
今年は戦後70周年にあたります。総理談話が出される前に日本の近現代史をお勉強したいと思いまして、
またシリーズ記事を書いています。現代から遡っていくアプローチで連載しています。
GHQ占領下の日本は、教科書の記述では「GHQの大日本帝国解体のあれこれ」「日本国憲法」「極東軍事裁判(東京裁判)」を主体に書かれていることが多いと思いますが、この記事では内閣・国会の動きを時系列順でならべながら、アプローチしていきます。
復員と引き揚げ・物資の不足・インフレ・労働争議などの社会的混乱は割愛します。ちなみに復員は軍人、引き揚げは民間人のことを指します。
左の図にややこしいことが書いてありますが、日本の占領統治は実質アメリカ単独で権限はGHQのマッカーサーに与えられていました。日本の場合はドイツと違い、総司令部が軍政を敷いて直接統治するのではなく、日本政府を使った間接統治でした。
そうです。占領統治中も日本の内閣と国会はあったのです。
マッカーサーが300人も連れて、悠々とフィリピンから厚木に到着したのは8月30日ですが、ポツダム宣言受諾後も内閣はありました。ポツダム宣言受諾を決めた【鈴木貫太郎 内閣】のあとがこちらの内閣です。
【東久邇宮稔彦 内閣】(1945.8.17~10.4)
~ 1945年 ~
9月2日 降伏文書調印(東京湾上・戦艦ミズーリ甲板上)
9月11日 東条英機元首相らA級戦犯容疑者の逮捕
9月20日 ポツダム緊急勅令
(GHQの命令を法律の制定を待たずに日本政府が発することができる)
10月4日 人権指令
(政治犯の即時釈放・思想警察の全廃・内相.警察首脳の罷免・一切の弾圧法規の撤廃を求めた指令)
間接統治とは言いましても、実際はGHQによる統治でして、GHQの言いなりにならない東久邇宮稔彦 内閣は2カ月足らずで総辞職させられてしまいました。
【幣原喜重郎 内閣】(1945.10.9~1946.5月)
文内にある通り、幣原総理はご長老でありましたので、GHQとのハードな交渉に当たったのは外相の吉田茂氏(のちの首相)でした。が、GHQの断行改革は怒涛のごとくすすんでいきます。
10月13日 国防保安法・軍機保護法 廃止
10月15日 治安維持法 廃止
10月22日 教育改革の指令
11月6日 財閥解体の指令
11月21日 治安警察法 廃止
12月9日 農地改革の指令
12月17日 普通選挙法の公布 (満25歳以上の男子⇒満20歳以上の男女)
12月18日 衆議院解散
12月22日 労働組合法の公布
~ 1946年 ~
1月1日 天皇陛下のいわゆる人間宣言
1月4日 公職追放令
2月13日 日本国憲法のいわゆるマッカーサー草案の提示
4月10日 解散総選挙→政界再編→新体制での国会開催→新憲法(案)の審議
5月3日 極東軍事裁判(東京裁判)開廷(1946.11閉廷)
【新党ブームと政界再編】合法政党となった「日本共産党」、結成された「日本社会党」「日本協同党」(中道)、保守系政党が再編された「日本自由党」「日本進歩党」、など新党ブームが起こります。
これらの政党によって議席が争われた戦後初・新選挙法下での衆議院選挙の結果がこちら
保守系の「日本自由党」「日本進歩党」の連立内閣が組閣されました。
「日本自由党」の党首は鳩山一郎氏でしたが、GHQの公職追放の対象者に指定され(5月3日)、外相だった吉田茂氏(日本自由党)が首相に任命されます。
【吉田茂 内閣(第1次)】(1946.5.22~1947.5月)
帝国議会(衆議院・貴族院)にて日本国憲法草案(形は憲法改正草案)の審議
6月、枢密院可決 → 8月、衆議院修正可決 → 10月、貴族院修正可決
11月3日公布 → 翌1947年5月3日施行 → また衆議院解散・政界再編
~ 1947年 ~
結成された労働組合の運動が激化、2月1日にゼネストの計画がもちあがる。
(日本共産党はある時期までは、ストライキから革命的情勢へ導けるように、ストを指導していた形跡がある)
《↑詳説日本史研究472頁の記載より引用。》
1月31日 マッカーサーが中止命令 ⇒ ニ.一 ゼネラルストライキ回避
4月20日 第1回参議院選挙
貴族院が廃止されました。貴族院議員だった吉田茂氏は↓の衆議院選挙に立候補して当選します。
4月25日 衆議院解散総選挙
この「民主党」は前の記事で述べた「日本民主党(1954年結成)」とは全く別のモノです。
「日本進歩党」全員、「日本自由党」から芦田均氏ら9人、「日本協同党→(協同民主党)→国民協同党」から25人、で結成されていて、解散時に第一党でした。
選挙の結果、第一党がなんと「社会党」になり、党委員長の片山哲氏が首相に任命され、「社会党」「民主党」「国民協同党」の連立内閣が組閣されました。
マッカーサーの思惑通りに中道の政党内閣になりましたとさ。だがあまりに左に寄り過ぎたw あとで説明。
【片山哲(社会党) 内閣】(1947.6月~1948.2月)
この画像の説明にある芦田均氏、三木武夫氏、は後に総理大臣になります。
この内閣は、与党第一党「社会党」内の左派(つまり極左)内紛のため総辞職。
かわって、連立を組んでいた「民主党」の党首-芦田均氏が内閣を組閣します。
【芦田均(民主党) 内閣】(1948.3月~1948.11月)
昭和電工疑獄事件により総辞職します。閣内に収賄の疑いで逮捕者が出たためです。ちなみに当時は大蔵官僚だった福田赳夫氏(後の首相)も逮捕されました(無罪)。のちに芦田均氏自身も逮捕されています(無罪)。
この内閣にかわる内閣は連立を組んでいた「国民協同党」の委員長:三木武夫氏(のちの首相:1974~76)を首相とするものにはならず、野党になっていた「日本自由党」の吉田茂氏が第2次吉田内閣を組閣します。経緯はややこしいので割愛。
ちなみに「日本自由党」は「民主自由党」へと再編して党名がかわってました。これだけでも十分ややこしい。
野党第一党の吉田茂党首が率いる「民主自由党」は、いろいろあって衆議院全体でも第一党になってました。筋金入りのリベラリストと言われた芦田均さんは憲法9条に深くかかわっています。「前項の目的を達するため」という文言を入れた人なんです(芦田修正)。
彼の選挙地盤はのちに谷垣専一氏に引き継がれ、現在は谷垣貞一幹事長(前自民党総裁)に引き継がれています。やはりこの人も筋金入りのリベラリストですね。2009年の政権交代・総裁就任にも因果を感じます。
三木武夫さんは保守系左派で汚職金権とは無縁のクリーンさが売りで理想主義者でした。彼の系譜は政治家として断絶し、三木派の流れを受け継いでいる派閥もまったく別な色になりましたが、彼の強い影響を受けた奥さまは「九条の会」設立呼びかけ人のひとりです。【吉田茂 内閣(第2次)】(1948.11月~1949.1月)
疑獄事件のあとを受けての組閣だったので、早々に衆議院は解散してまた民意を問うことに。
吉田茂首相率いる「民主自由党」が圧勝。そののち吉田内閣は第5次まで続き、長期安定政権になります。
「社会党」は、党首の片山哲氏まで落選するほどの惨敗を喫します。(48議席)
現職の野党第一党党首なのに落選!!の珍記録は、昨年12月の衆議院選挙まで更新されることはありませんでした。
~ ~ ~ ~ お し ま い ~ ~ ~ ~
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画像引用元
7.9枚目、政党公式ポスターより
上記以外: 詳説日本史研究の目次(山川出版社) 460頁~477頁
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日本近現代史研究~③「GHQ占領下の日本」
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