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Channel:  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪
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朝鮮半島近現代史研究⑤~「日露戦争」

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日露戦争に至る経緯を語る際に日清戦争後の清国について書いておく必要があると判断しました。教科書の文章を要約してなるべく簡潔に書いておきます。捏造歪曲はしません。どうか私を信じてください。

【戊戌の政変】
清国を改革して近代化する動きが若き清国皇帝・光緒帝(1858~1927)のもとでおこったが、西太后(1835~1908)ら保守派のクーデターによってつぶされた。光緒帝は幽閉され、変法派(改革派)の多くは日本など海外に亡命した。

【義和団事件(北清事変)】
山東省で結社された宗教的武術的秘密結社である義和団が清国民衆の熱狂的支持を受け民衆とともに暴動をおこした。スローガンに「扶清滅洋(清国を扶け西洋人を撃滅する)」を掲げた暴動は拡大し、首都北京に大挙して入城した(1900年6月)。義和団と暴徒は誰彼となく外国人を襲い列国公使館を軒並み包囲した。

そして実は、西太后ら保守派の清国政府が陰に日向に義和団と暴徒を煽っていた。(筆者注:なんか現代にかぶる(ーー゛))

【北京議定書】
$ Egi Shun,s  BLOG欧米列強は清国在留同胞の保護を名目に軍隊を派遣し、義和団の乱を徹底的に鎮圧した。

これを8カ国共同出兵といい連合軍のはしりとなった。
(画像、左より、英・米・露・英領インド・独・仏・オーストリア=ハンガリー・伊・日の兵士)

1901年清国は8カ国と北京議定書を締結し、莫大な賠償金(9億8千両)を支払う羽目になり、また国内に列強国守備兵が常駐することを認めさせられた(北京駐兵権)。
    

    北京・紫禁城内の連合軍 ☟

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 ロシアは出兵していた10数万の軍隊を撤退させず満州にとどめ事実上満州を軍事占領した。そりゃ日本ゲキ怒だよ!
 


詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。
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363~366頁本文
【日露戦争】
ロシアに対しては日英同盟協約を後ろ盾に満州からの撤兵を強く要求し、ロシアも1902(明治35)年4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束した。しかし、そののちこの協定は実行されず、ロシアはかえって韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めた。

(中略)

日本国内では、対露強硬論の気運が高まっていたが、とくに大きな役割を果たしたのは新聞であった。

ロシアが清国との協定で、満州からの第2次撤兵を約束した期限は1903年10月8日であったが、実行されなかったため、『大阪毎日新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『二六時報』など発行部数が一日10万部前後の有力新聞は、ほとんど対露開戦論一色となった。

そして、対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを激しく弾劾しはじめた。

(筆者・注)
①ラジオの日本初放送は1925年でこの当時ラジオ放送はない。メディア媒体は新聞と口コミのみ
②新聞のやり玉となった反開戦派の代表格は桂太郎首相と伊藤博文元老であった。

(中略)

日本側の主たる狙いは、満州を日本の利益範囲外と認めるかわりに、韓国における日本の軍事的・政治的優先権を確立することにあったが、ロシア側はこれを全く認めず、日露交渉はまったく行き詰った。

日本は1904(明治37)年2月、元老と政府・軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定し、日本海軍の旅順攻略と陸軍部隊の仁川上陸によって、日露戦争を開始した。
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強国ロシアとの戦いは、日本にとって文字通り国家と国民の命運を賭けた戦いであった。

日本政府(第1次桂内閣)は開戦にあたって、この戦争がきわめて苦しい戦いになることを予測した。

そして、その巨額の戦費にあてるため、高橋是清(1854~1936)日銀副総裁を派遣してアメリカや同盟国のイギリスで外国債を募集した。

また、金子堅太郎を特使としてアメリカへ派遣し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(1858~1919)に和平の仲介を依頼した。
 
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日露戦争の戦費は約17億円で当時の国家予算歳出分の数年分にあたります。そのうち8億円が英米で募集した外国債でしたが、実はロシアも外国債を発行して戦費に充てていました。

開戦当時は世界の大部分の国が日本の敗北を予想していたので、日本の外債発行はロシアに比べて不利な条件でしか発行できず、募集もままなりませんでした。ところが戦局が日本優勢になってくると状況が逆転しました。

戦時中の韓国国内はどうだったかというと、詳説日本史研究・詳説世界史研究・ともに記述がありません。高宗はロシア派(前の記事参照)でしたが、その政変前の親日政権の流れをくむ一進会という政治結社もあり、日本軍に協力しています。
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363~366頁本文
立憲政治を実現し国内改革に成功していた日本は、国民の支持のもとに総力をあげて戦うことができたが、専制政治(ロマノフ王朝)がおこなわていたロシアは、国内でこれに反対する運動が高まり、十分な戦力を発揮できなかった。

そのため戦況は、軍事的には日本の優勢のうちに進展した。

陸軍は遼陽・沙河の会戦でロシア軍を撃破し、数カ月の激しい攻防戦の末、1905(明治38)年1月にはロシアの東アジア最大の海軍基地である旅順をおとしいれ、さらに3月には奉天の会戦で勝利を収めた。$ Egi Shun,s  BLOG

また、海軍も同年5月の日本海海戦で東郷平八郎(1847~1934)の指揮する連合艦隊が、ヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた。

(右画像)
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮を執る東郷大将



当時、ロシア国内では、ツアー(ロシア皇帝)の政府の圧政に対する民衆の反対運動が激化しており、1905年1月には、首都ペテルブルグで血の日曜日事件がおこり、各地でストライキが頻発するなど、情勢ははなはだ険悪であった。

しかし、日本も軍事的勝利は得たが、兵器・弾薬・兵員の補充が困難となり、戦費調達もおぼつかなくなって、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていた。

そこで、日本海海戦の勝利の直後、日本政府は正式にアメリカ大統領に和平の仲介を依頼した。
 
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血の日曜日事件は、のちにロシア第一革命の発端とされました。映画にもなった‘戦艦ポチョムキンの叛乱’がこの年の6月です。↑クリックで説明文にとびます。

バルチック艦隊が出港したのは1904年10月15日です。ちょうど109年前の今日ですね。これより遅れると港が凍って出港できなかったんですかね?w さて、この当時ヨーロッパからアジアに至る貿易航路の制海権は大英帝国がほぼ掌握していました。日英同盟協約に基づき英国は動きます。

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ジブラルタルは現在でもイギリス領でイギリス軍が常駐しています。

のちに「3C」と呼ばれるカイロ(スエズ運河)・ケープタウン(喜望峰)・カルカッタ(インド)もイギリス領でした。

シンガポールとマラッカ海峡もイギリス領でした。

海上封鎖はしていません。軽量級の軍船はジブラルタルからスエズを通っています。ただし航路上にあまた有るイギリス領植民地の港には一切寄港できなくしたのです。

これは強烈に効きました。

当時のロシアの友好国だったフランス領の寄港地は少なく、バルチック艦隊は補給・修理・休息もままならぬまま、半年以上もかかって日本海に到達しました。艦も兵も疲弊しきっていたのです。

むろん、このことによって、連合艦隊の偉業ならびに東郷平八郎元帥の名声に傷がつくようなものではありません。大国ロシアの屈強な艦隊に開国から50年しか経過していない新興国日本の海軍が圧倒的勝利をおさめたことは世界を震撼させました。

日露戦争に日本が勝利したことは、日本国内および世界中に多大な影響を及ぼしました。
次回記事でくわしく述べます。


  ~~次回へ続く~~

今回の記事の画像はすべてウイキペディアより引用しました。

もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。

wikipedia.org/wiki/義和団の乱
wikipedia.org/wiki/日露戦争
wikipedia.org/wiki/日本海海戦

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