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朝鮮半島史~目次
序文
「朝鮮半島に関する知識は受験に必要なかった」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11052136999.html
第一章 古代史研究
①~「衛氏朝鮮から楽浪郡へ」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11270568287.html
②~「楽浪郡から帯方郡を設置」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11270923736.html
③~「高句麗と三韓」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11272951379.html
④~「伽耶諸国の鉄資源」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11351775602.html
⑤~「「広開土王碑と倭王武の上表文」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11352758769.html
⑥~「白村江の戦い」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11356342777.html
⑦~最終回「遣唐使と統一新羅・渤海」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11361387041.html
第二章 中世史研究
①~「朝鮮半島の国家が世界的に自慢できる文化遺産ってなんかあるぅ?
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11215333927.html
②~「中華統一王朝-唐の滅亡と王建による高麗の建国」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11548247006.html
③~「中華統一モンゴル王朝-元による高麗侵攻」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11548427041.html
④~「元寇と三別抄」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11551361801.html
⑤~「前期倭寇に苦しむ高麗王朝」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11557305522.html
⑥~「李成桂の李氏朝鮮建国と両班社会の形成」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11560834815.html
⑦~「李氏朝鮮と日本の貿易問題」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11561057076.html
⑧~「豊臣秀吉の文禄・慶長の役」 【本編】
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11099212136.html
⑨~「豊臣秀吉の文禄・慶長の役」 【参考】
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11099294877.html
⑩~最終回「日本との講和と後金(清)ホンタイジへの臣属」
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11561855601.html
第三章 近現代史研究
執筆はまだ未定です。
ワイマール憲法とナチス(ヒトラー)について
ブログ記事の更新はお休み中なのですが、これら一連の報道は看過できないと思いますので、記事書きました。
ナチスという言葉だけに過剰に反応して、左派系の方がたがギヤーギヤー騒いでおられるようです。
発言を切り取って言葉狩りをするのはいい加減にやめなさい!
麻生氏、ナチス発言を撤回 「改憲の悪しき例あげた」
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201308010043.html
麻生さんはなにを言いたかったのか?ほんとうのことを歴史教科書をひらいてお勉強したいと思います。記事書くの面倒だけど、これは書かさせていただかねばっ!!
詳説世界史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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446~447頁本文
(第一次世界大戦後の)1918年11月、ドイツでは敗戦を契機にドイツ革命(11月革命)がおこり、皇帝ヴイルヘルム2世が退位して、社会民主党エーベルト Ebert(1871~1925)を首相とする臨時政府が成立した。社会民主党は議会主義の立場で戦後の安定をはかろうとした。
(中略)
1919年、2月ワイマール(ドイツの都市名)で国民会議が開かれ、第1党の社会民主党のエーベルトが大統領になり(在1922~25)、ベルサイユ条約を承認し、8月、当時もっとも民主的といわれたワイマール憲法を制定した。
(中略)
こうして、ワイマール共和国(ようするにドイツ共和国のこと)は出発したが、1920年代初期のドイツの状態は政治的にも経済的にも多難であった。ドイツ国民の経済生活は混乱し、右翼の一揆、共和派の政治要人の暗殺、共産党の蜂起などが相ついだ。
いったん、引用を切ります。
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第一次大戦の敗戦後、ドイツでは帝政が廃止されて共和政になったのです。で、その議会制共和政治の第1党が左派系の社会民主党。日本風に略せば、『社民党』。 www
その左派系共和政政権の憲法がワイマール憲法です。
くわしくは ↓
wikipedia.org/wiki/ヴァイマル憲法
第一次大戦中にアメリカはイギリスとフランスに膨大な戦債(戦争資金援助という名の国の借金)を負わせました。戦争に勝つためです。めでたく勝ったので、イギリスとフランスは敗戦国のドイツにその分を賠償金として要求しました。ベルサイユ条約を承認するということは、この莫大な賠償金の支払いをのむということです。
フランスはこの賠償金を苛酷に取り立て、返済が滞ってるといってドイツの大工業地帯のルールを軍事占領したりしました(1923年)。さすがにこれは国際社会(イギリスも含む)から非難されましたけど・・・。フランスにも事情はあるのですが、ここでは割愛します。
それでは引用を続けていきましょう。
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447頁本文
(第一次世界大戦後のドイツでは)多くの領土を失ったうえ、過酷な賠償金の取り立てにもかかわらず、返済は困難をきわめ、フランスによるルール工業地帯の占領は労働者のサボタージュなど消極的抵抗をひきおこした。そのためドイツ経済は破綻し、空前の悪政インフレーションをひきおこし、物価は一兆倍にも達した。
この間、ヒトラー Hitler(1889~1945)によるミュンヘン一揆(1923.11月)などの反乱がおこり、政治は混迷をつづけた。
1923年.8月、首相についたシュトレーゼマン Stresemann(1878~1929)は、銀行家シャハトの協力を得てレンテンマルクの紙幣を発行(1923.11月)して、奇跡的にインフレを収束した。またルールにおける消極的抵抗を止め、フランスとの協調に成功した。
この内閣は3ヶ月で終わったが、彼は外相として1929年までとどまり、ドーズ案(1924)の成立、ロカルノ条約(1925)の締結。国際連盟への加盟(1926)など、ヨーロッパ諸国との協調外交を展開し、ドイツの国際的地位を高めた。
ドーズ案によってアメリカ資本の導入がもたらされ、ドイツ経済は再建と安定の方向にむかい、1926年には工業生産は戦前の水準に達し、経済の安定とともに、保守的勢力の復活がみられた。
1925年エーベルトの死後、戦時中の英雄ヒンデンブルグ Hindenburg(1847~1934)が2代目の大統領に就任し、しばらく経済的安定がつづいている間はドイツの政局は安定した。
いったん、引用を切ります。
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『奇跡的にインフレを止めた!』ですと!。。
いまの日本国首相と日銀総裁も後世このような形で教科書に記載されるといいですね。
『奇跡的にデフレを収束した!!』まだ始まったばかりですが、ぜひとも成功に導いてほしい。
ミュンヘン一揆は一日で鎮圧されてヒトラーは逮捕されてますから、彼の台頭はもっとあとの年代になります。この獄中で口述筆記されたのが「我が闘争」です。
ドイツに導入されたアメリカ資本って、もとをたどればドイツが払った賠償金がだいぶ含まれているというのが、読んでいくと分かりますね。今も昔もアメリカはえぐい。つきあいかたは気をつけましょう。
シュトレーゼマンが脳溢血で急死した年、ウォール街に端を発した世界大恐慌(1929.10.24暗黒の木曜日)がおこります。恐慌がヨーロッパに波及したのは翌年ですが、戦後やっと安定した世界はふたたび大混乱になり、2回目の世界大戦へとすすんでいきます。
ヒトラーが台頭してきた背景は世界大恐慌後の世界です。引用を続けていきましょう。
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467頁本文
(世界大恐慌後のドイツでは)破滅的な打撃が経済界を襲った。
(中略)
この状況のなかでヒンデンブルグ大統領の非常大権(ワイマール憲法第48条)によって成立した大統領内閣(議会に多数派の基礎をもたない)の緊急条例で恐慌の克服に努めたが効果なく、かえって議会政治の機能は弱まり、独裁傾向が進んだ。
ナチス Nazis (国家社会主義ドイツ労働者党 or 国民社会主義ドイツ労働者党)が国民の脚光を浴びて出現したのは、このような背景であった。
(中略)
(ナチス党は)恐慌の到来による社会不安を背景にいっきにその勢力を拡大し、1930年の総選挙では議席数が12名から107名に躍進した。そして1932年7月には230名を獲得し、社会民主党を抜いて第1党になった。
引用を終わります。
ヒトラーの首相任命は1933年1月です。(大統領はヒンデンブルグ)
同年3月にナチス党は議会を掌握して全権委任法を成立させワイマール憲法は停止しました。
ヒンデンブルグの死(1934年8月)後、ヒトラーは国民投票で大統領と首相を兼務する総統に就任します。
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ここまで引用を読んでいただければ、麻生さんがおっしゃりたかったことはお分かりいただけるかと思います。
麻生さんの発言全文 ↓
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html
「当時世界でもっとも民主的で平和的なワイマール憲法下でも、議会制民主主義のもとでも、ヒトラーのような政治家を首相ひいては総統にまで就任させた」という例ですね。
記事タイトルの『改憲の悪しき例あげた』というのは全く持って間違ってます。記事を読めば「なんでこの記事内容でこのタイトル?」と思いますよ。まともな日本語の読解力がある人なら皆そう思うことでしょう。
読売のネット記事はさらに論外です。タイトルだけではなく内容も曲解して伝えています。ひどいもんだ
くわしくは、保守速報さん ↓
http://www.hoshusokuhou.com/archives/30202040.html
ナチスが極左政党だというのは、日本語に訳した党名を読めば一目瞭然です。ナチス党の党旗であるハーケンクロイツ掲揚は現在の欧州では固く禁止されています。
別件絡みですが、日章旗・旭日旗についてはこちらの過去記事を参照してください。
http://ameblo.jp/egiihson/entry-11149284728.html
【海上自衛隊旗について調べて考えてみた】
緊急執筆なので、字ばっかりでごめんなさい。
~おしまい~
朝鮮半島近現代史研究 序文~「日本列島防衛線の構築」
朝鮮半島ならびに東アジア情勢の近現代史を語る上で、基礎として押さえておかなければならないことを序文として記します。
【ロシアの南下政策】
受験で世界史を選択した人なら必ず知ってる重要な用語です。ロシアは中世よりこのかた、ず~っと南方へ進出したくてしたくてたまらないのです。外国との交易のために冬でも港湾が凍らない「不凍港」を自前で持ちたかったのです。
古都サンクトペテルブルグはスウェーデンとの戦争に勝利した後にピョートル大帝によって造られた都市です。だから彼の名が都市名になってます。ロシアンは「西欧への窓が開かれた」と大喜びしましたが、不凍港ではありませんでした。ざんねん!byロシアン
東西交易の要所イスタンブールも欲しくて欲しくてたまりませんでした。なのでトルコとは何度も何度も戦争しています。ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争が有名ですが、これは露土戦争(ロシアとトルコの戦争)の一部に過ぎません。
トルコは強国でロシアはいつも苦戦します。ロシアを嫌う英仏などが参戦して邪魔をするので、トルコへの南下はことごとく失敗してます。国家的な利害関係もあるだろうけど根本的に英仏などはスラブ人がダイキライなようです。
東アジアでもロシアの南下政策は積極的に行われ、清朝(中華帝国)に圧力をかけてはじわりじわりとロシアと清の国境を南下させていきました。
そんななか、エカテリーナ2世の使節ラスクマンが根室に来航したのが1792年です。
【間宮林蔵の北方大冒険】
間宮海峡を発見したことで知られる間宮林蔵さんですが、彼が幕府から帯びた密命は少々意味が異なります。密命は『露西亜がどのへんまで来とるか?お前ちょっと行って確かめてこいや!』というものでした。
←【クリックで拡大】
1808年から翌年にかけて間宮隊は冒険に出かけ、樺太が島であることを確認(=間宮海峡の発見)し、対岸の沿海州に渡り、清国の役所であるデレンに赴き、敵情視察をしてきました。
沿海州がロシア領となったのが1860年ですから、かなりヤバかったんですね。
ロシアンはすぐにウラジオストクの都市建設に着手しました。意味はロシア語で「東方の支配」です。ロシアンの本気度がうかがうえますね。
しかしここも完全な意味では不凍港ではありませんでした。またかよ(ーー゛) byロシアン
したがってロシアは更に南下を進めます。「朝鮮半島を一部でもロシアに領有されてウラジオストクのような軍事拠点を建設されては国防上かなわん」というのが日本の立場でした。
【南方脅威と沖縄・台湾】
脅威は北方だけではありません。欧米列強のしきたりに沿って、全方向に領土・領海を確定し防衛線を敷くことが必要でした。江戸時代の琉球は薩摩藩の支配下にあり江戸幕府へも朝貢していましたが、同時に清帝国の柵封下にもありました。
こういう曖昧なことでは欧米列強に弱みをつかれるので、明治政府は廃藩置県で沖縄県を設置(1879年)し領土としましたが、案の上清朝がクレーム付けてきました。
時期が前後しますが、1871年に台湾に漂着した琉球漁民が殺されるという事件がありました。このとき清朝政府が「台湾は化外の地(清国の領土ではない)」として、責任逃れをした経緯もあります。
この事件は日本の台湾出兵をまねき、その事後処理に大久保利通が全権委任として清国と交渉。英国公使ウェードの調停もあり、清国がしぶしぶ日本に賠償金(50万両)を払うことで解決しました。
清朝(中華帝国)はメンツ(宗主権)にこだわり琉球の領有権を主張し日本に抗議しつづけます。前アメリカ大統領のグラントが調停案をしめしましたが、話し合いが通用しないのは今も昔もかわりがありません。
まあ、この調停案は先島諸島(宮古・八重山)を清国に譲るというものでしたから、日本側ものめるわけないんですけどね。当時は国家間の争いがどうにもならん時は戦争で解決という時代でしたから、沖縄の領有権問題は日清戦争(下関条約)で解決しています。
小笠原諸島は日本とアメリカの間で所属問題が未解決でしたが、あっさりとアメリカが譲って1876年に日本領になりました。
【幕末の図ですが、欧米列強のアジア進出の様子を引用します。】
この状況で沖縄諸島(琉球)が日本固有の領土じゃない・・・なんてあり得んでしょう。どことはいいませんが欧米列強国に一部でも租借されてたら喉元に剣です。一国じゃなかったかもしれません。沖縄の複数の地にそれぞれ別の国の租借地があって拠点にされる。
考えただけでも身の毛がよだちますね。
当時の清国(中華帝国)は欧米列強に進出され半死半生でした。なのにアホなメンツにこだわってギャーギャーと日本にだけは文句言うので問題がややこしくなりました。清朝が漢民族ではなく満州の女真族による征服王朝だったこともややこしさに拍車をかけました。
近代国家に生まれ変わった日本(明治政府)は領土を画定し防衛線を敷きたかった。ただそれだけでした。しかしそのために日清・日露のふたつの戦争をしなければならない羽目になりました。
国際情勢というのはいつの時代も厳しいものなのですね。
~序文おしまい・いよいよ本編へつづく~
次の記事)①~「征韓論と江華島事件」
他の時代の記事は目次から☟
朝鮮半島史~目次
【今回の記事の画像はすべて所有している山川出版社の歴史教科書を撮影したものです】
尺があまったのでロシアンのオマケ画像
朝鮮半島近現代史研究①~「征韓論と江華島事件」
まずは詳説世界史研究のほうから概要についてざっくり引用します。
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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403頁本文
李氏朝鮮では) 1860年代になると、欧米列強は従来からの鎖国政策をつづける李朝にも開国を迫るようになった。列強の開国要求に対し、当時の朝廷の実力者大院君(1820~98国王高宗の父)は、強硬な攘夷政策をとってこれを拒否したが、やがて明治維新後の日本政府も、李朝に対して開国を要求するようになった。
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ほんとうは日本史の教科書からの引用だけで済ませようと思っていましたが、欧米列強も朝鮮半島に触手を伸ばしていたことが書いてなかったので、世界史教科書の記述を探すことになってしまいました。これは意図的なものでしょうか?
はるばる極東地域にまで航行してきてる欧米列強が朝鮮半島の李朝になんの圧力もかけないわけないでしょ?
ロシアの脅威の逼迫度において、日本は追いつめられていていちばん強硬な手段にでざるを得なかったのでしょう。英仏などはクリミア戦争で自国方面(ヨーロッパ)でのロシアの脅威は排除していましたから、極東に関しては様子見だったのだと思います。日本はババを引かされたんですよ。
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
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332~333頁本文
幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬手段をもつてのぞむべきだとする征韓論が高まった。
(中略)
1873(明治6)年には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えて朝鮮の開国を実現させる方針を内定した。
(中略)
しかし、1873(明治6)年9月、岩倉具視一行が帰国すると、欧米先進列強の著しい発展をみてきた大久保利通・木戸孝允らは、あくまで内地の整備が先決であるとして征韓論に強く反対し、結局、同年10月、はじめの方針は取り消され、西郷ら征韓派の議員はいっせいに参議を辞職した(明治六年の政変)。
その後、朝鮮問題は紛糾を続けたが、朝鮮を開国させるきっかけをつかもうとした日本政府は、1875(明治8)年軍艦雲揚を派遣し、朝鮮の沿岸で測量を行うなど示威の行動をとった。
同艦の艦長が飲料水を得ようと、首都韓城(現・ソウル)に近い漢江河口の江華島にボートで近づくと、同島の砲台から砲撃を受けた。
そこで雲揚は砲撃して砲台を破壊し、近くの島に兵員を上陸させて永宗城を占領した。これが江華島事件である。この事件をきっかけに、日本政府は朝鮮に圧力をかけ、翌1876(明治9)年、日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。
日朝修好条規を結ぶために、日本は参議黒田清隆を全権使節として6隻の艦隊とともに、武力を背景に交渉をすすめた。ちょうど20年以上前、ペリーが来航して日本に開国を要求したのと同様の立場に立ったわけである。
(中略)
この条約の締結によって朝鮮は釜山・仁川・元山を開き、片務的な領事裁判権や関税免税を日本に対して認めた。
こうして日本は朝鮮に不平等条約を押しつけたが、同時に、朝鮮を一つの独立国として清国の宗主権を否定する立場に立ったのである。
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李氏朝鮮がその後ほぼ同じ内容の条約を欧米列強(英米仏露など)とも締結したことを付け加えておきます。幕末の日本が日米通商修好条約と同じ不平等条約を英蘭仏露と締結したのと同様です。
この条約が不平等条約だというのは日本側も認めていました。事実、外務卿の寺島宗則はアメリカ公使ビンガムに「おはんたらが日本にやったのと同じようにやったとでごわす」と説明しています。
ロシアとの国境画定について追記しておきます。日露和親条約(1854)では<樺太は日露雑居地・千島列島は択捉島以南が日本-売撫島以北がロシア>とされていました。その後、千島樺太交換条約(1875)で、<樺太はロシア領・千島列島は全島日本領>となりました。
樺太を捨てることは、ロシアの脅威に邪魔されずに北海道開拓を行うための苦渋の選択でした。
しかし、同じくロシアの脅威が迫っている李氏朝鮮は外国でしかも清国の属国です。日本がかわってロシアと交渉するわけにはいかないので朝鮮に開国してもらうしかなかったのですが、朝鮮がかたくなに拒むので、日本政府はこのような強硬手段に出ることになってしまいました。
これがよかったのか?悪かったのか?現在に至るまでこのババに苦しめられているのは因果な話です。
このとき日本が朝鮮やロシアと距離をおいて静観してたら?・・・。朝鮮半島でロシアvs英仏の軍事衝突になっていたかもしれまんし、その結果なんぞ想像もつきません。まあ『たられば』の話はこのくらいにしておきましょう。
もちろん現在では、この時の日本政府のやり方は国際的に通用しません。ペリーのやり方もね。でも現在でも堂々とやっている国家があるんです。それを、軍国主義・帝国主義・覇権主義って言うんですよ。
~~おしまい~~
今回の記事の画像はすべてウイキペディアから拝借してきました。(4枚目は手持ちの教科書ページより)
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/征韓論
wikipedia.org/wiki/岩倉使節団
wikipedia.org/wiki/江華島事件
wikipedia.org/wiki/日朝修好条規
前の記事)朝鮮半島近現代史研究 序文~「日本列島防衛線の構築」
次の記事)②~「壬午軍乱と甲申事変そして脱亜論」
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究②~「壬午軍乱と甲申事変そして脱亜論」
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
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355~356頁本文
明治維新以来、日本の対アジア外交の中心は朝鮮に向けられていた。欧米列強の東アジア進出に強い危機感を抱いていた日本政府は、朝鮮が列強、とくにロシアの勢力下に入れば日本の国家的独立もまた危うくなると恐れた。
そして、それ以前に日本の主導権で朝鮮を独立させて日本の影響下におき、列強と対抗しようと考えていた。征韓論や日朝修好条規もその表われだった。
しかし、こうした日本の朝鮮政策は、朝鮮を属国とみなして宗主権を主張する清国と、次第に対立を深めることになった。日清戦争の主要原因は、朝鮮半島をめぐる日清間のこのような政治的・軍事的対立にあった。
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ねっ、序章や①で私が書いたことが、歴史教科書にもビシっと書いてあるでしょう。タイトルの「壬午軍乱」と「甲申事変」は、世界史・日本史・りょうほうの教科書に記述かあります。詳説世界史研究のほうが簡潔で分かりいい文章なので、そちらから引用します。
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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<画像は閔妃と大院君> 404頁本文
【壬午軍乱(壬午政変)】
日朝修好条規の締結は、李氏朝鮮の宗主国の立場にあった清を刺激し、清朝側でも李鴻章が中心となって朝鮮半島に対する干渉政策が推進された。
おりしも李朝内部では複雑な政治抗争が展開され、これに絡むかたちで朝鮮半島における日・清の対立が深まっていった。
まず1882年、当初日本に接近して内政改革を進めていた閔妃(びんひ-ミンヒ 1851~95,国王高宗の皇后)派の政府に対し、保守派の大院君(1820~98,国王高宗の父)が軍隊を扇動し、日本公使館が焼き打ちされ、日本人軍事顧問などが殺された。
李朝に対する干渉強化の好機とみた清朝は、大軍を派遣して大院君を捕らえ、閔妃政権を復活させた。
これを壬午軍乱(壬午政変)といい、この事件後、閔妃派は急速に清と接近するようになった。
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まあなんというかかんというか?国王高宗の父と嫁のそれぞれの一族を巻き込んだドロドロでグチャクヂャの権力闘争ですな。閔妃派は最初は日本寄りで、つぎに清寄り、時代がさがるとロシア寄りになるんですが、その話はまた後の記事で。にしてもケツの軽い連中だ。
大院君と閔妃との抗争はこのあとも延々と続くんですが、ばかばかしいので割愛してしまうかもしれません。では教科書からの引用に戻ります。
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<画像は金玉均> 404頁本文
【甲申政変(甲申事変)】
このように清の勢力下で李朝の安全維持をはかる一派を事大党と呼ぶが、これに対し、金玉均(1851~94)・朴永孝(1861~1939)ら急進的改革による朝鮮の近代化をめざす一派は独立党と呼ばれ、日本の明治維新をモデルとし、日本との提携をはかっていった。
1884年、清仏戦争における清の敗戦に乗じ、独立党は日本の後援下に事大党政権打倒のクーデターをおこしたが、清軍の出動によって失敗に終わった。
これを甲申政変(甲申事変)という。独立党の指導者・金玉均は日本に亡命したのち、日清戦争直前に上海で閔妃政府の刺客に暗殺され、遺体はソウルに運ばれて晒された。
事件後、日清間に天津条約(1885)が結ばれ、両国の朝鮮半島からの共同撤兵や、非常時の出兵に際しての事前通告などが約されたが、朝鮮における日本勢力の後退は明らかであった。
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金玉均の遺体が晒し首にされている画像はウイキペディアにあるのですが、グロなので載せません。どうしても見たい人はここをクリックしてください。→グロ画像閲覧注意
こんなふうにgdgdになってきたところで出てきたのが福沢諭吉先生の脱亜論です。教科書にも載ってますから引用しましょう。
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404頁本文
【福沢諭吉の脱亜論】
福沢諭吉は、壬午軍乱ののちの朝鮮における清国の勢力が強まったのに対し、朝鮮の改革派を援助し、彼ら自身の手で朝鮮の国内改革が推進されることを期待した。
しかし、1884(明治17)年の甲申事変のとき、清国の軍事介入で改革派の勢力が朝鮮から一掃されたため、福沢の期待は失われた。翌年3月、福沢は『時事新報』紙上に「脱亜論」を掲載した。
その趣旨は、西洋諸国の急速な東アジアへの勢力拡張のなかで、西洋文明を取り入れて近代化しない限り国家的独立は維持できないという認識に立ち、近代化をなしえない近隣諸国を見捨てても、日本は独自に近代化を進めて西洋諸国の仲間入りをし、朝鮮・清国にも西洋流のやり方で接するほかはないというものであった。
このような脱亜論は、清国との軍事的対決の気運を高めていくことになった。
【自由民権派の強硬論】
甲申事変に際して、自由民権派は武力出兵を唱えて対朝鮮・対清国強硬論を説き、天津条約を結んで清国との衝突を避けた日本政府の外交を弱腰であると避難した。そして、急進派の大井憲太郎らによって、朝鮮から清国の勢力を一掃してその独立を達成させようとする運動が進められた。
こうしたなかで、日本政府は、朝鮮の国内改革を行って日本の指導のもとに独立させようという方針を次第に強めた。このように朝鮮をめぐる日清両国の利害の対立はますます深まり、両国間の空気は次第に険悪となった。
すでに日本政府は1880年代の前半から、清国との衝突に備えて、対外戦争に耐え得るように着々と軍備の改革と拡張を進めていた。
(後略)
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自由民権派というのは征韓論支持者が多いですからこうなりますね。板垣退助・後藤象二郎・江藤新平ら明治六年の政変で西郷隆盛とともに参議を辞職した人たちです。(副島種臣は参加してません)
朝鮮半島ってのは外圧や国難に際して絶対に国論がまとまらないですね。150年前からそうなんですね。いまも南北に分かれて戦争中で休戦ちゅうなうです。
日清の対立はもうお互い引くことが出来なくなってしまい、この時代ですから、戦争で決着付けるしかない状況になりました。この様子をほくそ笑みながらうかがっていたのがロシアンです。
~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
閔妃 →(こちらのサイトhttp://conservatics.blogspot.jp/2013/04/blog-post_4460.html)
脱亜論→(手持ちの教科書ページより)
ほかは→ウイキペディアより
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/壬午事変
wikipedia.org/wiki/甲申政変
wikipedia.org/wiki/脱亜論
wikipedia.org/wiki/自由民権運動
前の記事)①~「征韓論と江華島事件」
次の記事)③~「甲午農民戦争から日清戦争へ」
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究③~「甲午農民戦争から日清戦争へ」
タイトルの「甲午農民戦争」は朝鮮半島側では「東学党の乱」と呼ばれます。あまり有名ではないので、ウイキペディアをキャプしておきます。
「甲午農民戦争」「日清戦争」は、世界史・日本史・りょうほうの教科書に記述かありますが、やはり詳説世界史研究のほうが簡潔で分かりいい文章なので、そちらから引用します。
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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<まずは東学党ってどういう連中なの?から・画像は全琫準> 404頁参考
【東学】
東学とは李朝末期の1860年ごろ、没落官人(両班)出身の雀済愚(1824~64)が、キリスト教(西学)とともに進出してきた欧米列強が朝鮮の伝統的社会を侵食しつつある状況を憂慮し、これに対抗するために創始した新興宗教で、儒・仏・道3教と民間信仰を融合させ、一部キリスト教要素も加えたものといわれる。
李朝政府は、東学を「邪教」として弾圧し、雀済愚は処刑されたが、多くの窮乏農民や没落官人が東学に救済の希望をよせ、2代教祖雀時亨(1827~98)のもとで、一大教団に成長していった。東学は排外主義や政治腐敗への素朴な批判のほか、お札やまじないによる無病息災の祈願といった土俗的要素を濃厚に有していた。
このような東学に率いられた甲午農民戦争は、欧米列強の圧迫に対する民衆の本能的な民族主義の爆発と、そこに含まれる保守的・迷信的要素という点で、清末の義和団事変とよく似た性格をもつといえる。
【全琫準】404頁・人物
全琫準は朝鮮南部全羅道の下級役人の家に生まれ、父も農民一揆を指導して刑死したという経歴をもつ。
小柄であった彼は「緑豆(ノクト)」の幼名で呼ばれ、農民に深く敬愛されていた。
1894年12月、全琫準は近代兵器で武装した日本軍に決戦を挑んで敗れ、処刑されたが、彼の名は死後も民衆に追憶され「緑豆と青鳥」などの動揺となってうたいつがれている。
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「儒教・仏教・道教・3教と民間信仰を融合させ、一部キリスト教要素も加えた」って???
得意のパクれるものはぜんぶパクって、グッチグッチヤにかき混ぜてって、得意のあれやん!!(笑)
ようするに教祖さまが経典なんだね。
全琫準の写真って初めて見た時に「誰が全琫準なんやねん?」って思ったけど、担架にしかみえない神輿に乗っている人がそうらしい。「写真撮るときはもう少し良い身なりにしろよ」と思ったけど、修正してないだけなんだと納得しました。前の記事の閔妃の写真って顔の部分が取って付けたみたいでしょ?
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404頁本文
【甲午農民戦争】
1894年4月、東学党門下の全琫準(ぜんほうじゅん 1854~95)が地方官の暴政に対し農民を率いて挙兵した。
すると、「逐洋斥倭」(ちくようせきわ・西洋と日本を排斥する)をスローガンに掲げる東学党のもとに多数の農民が参集し、南部全羅道を中心に大農民反乱へと広がっていった。
これを甲午農民戦争(東学党の乱)と呼ぶ。
甲午農民戦争がおこると、李朝政府は清に軍隊の派遣を要請し、清軍が朝鮮に出動すると、これに対して日本もただちに出兵をおこなった。
ここにいたって、反乱が日清両国の朝鮮侵略を招く危険性を察知した李朝政府と東学党は、同年6月に停戦協定を結んだ。
しかし、事件を朝鮮半島における勢力挽回の好機と考える日本政府は、清国に対して甲午農民戦争の日清両軍による徹底鎮圧を提案し、李朝政府には内政干渉的要求を突きつけるなど、事態の紛糾と拡大化に努めていった。
日清両軍による甲午農民戦争の徹底鎮圧の提案が清朝側に拒否されると、7月末、日本は清軍に奇襲攻撃をかけ、ここに日清戦争が勃発した。
(中略)
陸海とも軍備の近代化で先行していた日本の圧勝に終わり、翌1895年4月、(中略)両国は講和した。
(後略)
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東学党のスローガンからも伺えるように、欧州の列強国も李氏朝鮮にさかんに干渉をしていました。1887年(明治20年)にイギリス艦隊が巨文島を占領したことなんか教科書に書いてないです。英国の行動は南下するロシア軍への牽制ですけどね。
甲午農民戦争(東学党の乱)がいったん沈静化したあと、清朝はそれ以上李氏朝鮮に深入りしませんでした。長年朝鮮半島を属国にしていただけあって中華王朝である清朝は朝鮮の連中の扱いに慣れてますね。日本と共闘なんてのもまっぴらごめんだったのでしょう。
ババは引かないに限ります。
日本側としても講和で清国に対してこのババを独立国として承認させました。このとき(1895年)清国に領土割譲させたのは台湾や遼東半島など清国そのものの領土だったのです。
また、このような他国の内乱への軍事介入に対しての是非を問う声もあるでしょうが、現代でもやってる国があるでしょうに。それゆえ、この時代の列強国にとってはあったりまえの常套手段でした。
李氏朝鮮側の立場で言えば「清国からの独立など大きなお世話、ウリナラは現状維持がいい」という論調だったかもしれませんが、それムリですから。日本が積極的に干渉してなかったら英国とロシアによって分割されたんじゃないですか?まぁ「たられば」はやめときましょう。
日本は琉球・台湾での確執がありましたから、どうしても清国とは一戦交えて白黒はっきりさせたかったのです。あくまで日清戦争であり、その主戦場が朝鮮半島になりました。そして日清戦争における日本の圧倒的勝利は世界に衝撃を与え、列強国による世界再分割を加速させていきます。
~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
地図画像→(手持ちの教科書ページより)
全琫準 →ウイキペディアより
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/甲午農民戦争
wikipedia.org/wiki/全琫準
wikipedia.org/wiki/日清戦争
前の記事)②~「壬午軍乱と甲申事変そして脱亜論」
次の記事)④~「三国干渉と日英同盟-そのはざまの大韓帝国」
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究④~「三国干渉と日英同盟-そのはざまの大韓帝国」
あたりまえなのですが、朝鮮半島を中心に世界史・日本史・の教科書は記述・編纂されていません。なので時系列に沿って分かりやすく記述を並べるために教科書をあっちこっちしています。
このあたりから列強国による世界分割が最終段階に入りますから、あっちこっちの回数が増えるんですが、なるぺく分かりやすく引用して記事をおこしていきたいと思います。
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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358頁参考
【下関条約】
1895(明治28)年4月、伊藤博文首相・陸奥宗光外相が全権委任となり、清国全権李鴻章とのあいだに日清間の講和条約が調印された。これが下関条約である。この条約によって清国は日本に対して
①朝鮮半島の独立の承認
②台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲
③賠償金2億両(日本円で約3憶一千万)の支払い
④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港・租界での治外法権などの承認
などを約束した。こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第一歩を踏み出した。
それまで‘眠れる獅子’といわれていた清国が、名もない東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼んだ。欧米列強はこぞって中国再分割に乗り出した。
【三国干渉】
なかでも、南満州へ進出の機会をうかがっていたロシアは、日本の進出を警戒して、下関条約が結ばれるや、ただちに、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するように日本政府へ申し入れたきた。
これがいわゆる三国干渉である。
日本はまだ、これらの大国に対抗できるだけの実力がなかったので、政府はやむなく清国から3000万両(約5000万円)の償金を追加して、遼東半島の返還に応じることにした。
国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」の合言葉が叫ばれるようになり、政府もそうした気運のなかで、軍備拡張と国力の充実をはかった。
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三国干渉に当時の日本人はみんなビックリしたでしょうね。「それはないだろう?」と。欧州諸国はふだん仲が悪くても利害があえば簡単に結託します。ヨーロッパの国同士は戦争ばっかりしてますから、平気でこのくらい狡猾に寝首を掻いてきます。
英仏はロシア嫌いですが、英仏も長年のライバル関係にあり、フランスは、せっかく掘ったスエズ運河を英国資本に横取りされた腹いせに、ロシアのシベリア鉄道に投資したのです。国民性も天邪鬼と揶揄されますし。
ドイツとイタリアは訳あって統一国家の形成がおくれました。明治維新と同じ時期です。英仏らのように植民地経営に乗り出したいのですが、もう残っているところがあまりない。ドイツは山東半島に進出を企てていましたから、対岸・目と鼻の先の遼東半島日本領有は困ったというわけです。
ロシアは三国干渉に応じた清国に対し、お礼にシベリア鉄道を満州経由にしました。このとき露清密約が締結(1896)されてます。この密約は日本に対する軍事同盟の性格を持っていました。
この頃、自国大陸にフロンティアがなくなったアメリカは、中米と太平洋に進出しハワイ王国を併合・スペインと戦争してフィリピンとグアムを略取しました。(これに日本が口出ししなかったのは、のちの桂-タフト協定につながるなにかがあったのだと思います。)
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361~362頁本文
【大韓帝国】
日本は日清戦争によって「朝鮮の独立」を清国に認めさせ、‘利益線’たる朝鮮から清国の勢力を排除することに成功したが、三国干渉による日本の威信低下に乗じて、ロシアが朝鮮に゛勢力を伸ばし、1895(明治28)年7月、親露派政権がつくられた(親清だった閔妃政権のことです。清国が負けたのでロシアに鞍替えしました)。
同年10月、日本公使・三浦梧楼(みうらごろう 1846~1926)や日本の軍人・壮士らが中心となり、大院君を擁立してクーデターを強行し、閔妃政権を打倒して親日派政権を樹立させた(閔妃殺害事件)。(大院君って閔妃を貶めるためなら後ろ盾はどうでもいいらしい)
しかし、翌年2月、みたび政変がおこって朝鮮国王はロシア公使館に移り(露館播遷)、ロシアを後ろ盾とした政権が発足した。(朝鮮国王というのは高宗のこと・大院君の子で、高宗の妃が閔妃です。画像の人物)
その後、日露両国は山形-ロバノフ協定、西-ローゼン協定などを結んで朝鮮(韓国①)における利害の調整をはかったが、韓国を勢力下に収めようとする日本の政策は達成されず、韓国問題をめぐる日露の対立はしだいに深まった。
362頁・欄外
①朝鮮は1897(明治30)年、国号を大韓帝国と改めた。
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桂-タフト、山形-ロバノフ、西-ローゼン、はすべて人の名前です。交渉にあたった宰相の名前です。クリックで説明文にとびます。
ドイツは1898年に宣教師殺害事件を口実に山東半島の青島(チンタオ)を租借します。これに対抗する形でロシアは日本から掠め取ったような遼東半島の旅順・大連を租借します。念願の不凍港です。ドイツとロシアに対抗してイギリスが九竜と威海衛(いかいえい・山東半島の東端)を租借します。
もう一触即発状態でした。威海衛(いかいえい)は日清戦争の戦闘で有名な場所です。
この状態からドイツだけハバにされたのが第1次世界大戦の東アジアでの勢力図になります。
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362~363頁本文
【日英同盟】
ロシアの勢力拡張に脅威を感じた日本政府内には、2つの意見が生じた。
1つは伊藤博文・井上馨らの日露協商論で、ロシアの満州における自由行動を認める代わりに、日本の韓国支配を認めさせようとするいわゆる満韓交換によって、日露間の利害を調整しようとするものであった。
これに対し、桂太郎首相・小室寿太郎外相らは、イギリスと提携してロシアをおさえるために日英同盟論を唱えた。
勢力均衡の立場からどことも同盟を結ばず、‘光栄ある孤立’を保ってきたイギリスではあったが、当時バルカン半島や東アジアでロシアと対立し、その勢力拡張を警戒していたので、日露両国の接近を恐れて日英同盟論を歓迎し、1902(明治35)年1月に日英同盟協約が成立した。
協約の内容は、
1)清国と韓国の独立と領土保全を維持するとともに、日本の清韓両国、およびイギリスの清国、における政治的・経済的利益を互いに擁護し、
2)もし日英のいずれかが第三国と戦争を始めたときは、他方は厳正中立を守り、
3)さらに2国以上と交戦したときは援助を与え、共同して戦闘にあたる。
というものだった。
(後略)
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3)は、ロシアに加担する国があったら「おれら英国紳士が出てって相手するよっ」という暗黙の脅しです。露清の密約なんぞ英国諜報部につつぬけでした。
~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
1枚目→http://heiwa.yomitan.jp/4/3206.html
2枚目→ウイキペディアより
3枚目→http://tvrocker.blog28.fc2.com/blog-date-20110103.html
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/三国干渉
wikipedia.org/wiki/大韓帝国
wikipedia.org/wiki/日英同盟
前の記事)③~「甲午農民戦争から日清戦争へ」
次の記事)⑤~「日露戦争」
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究⑤~「日露戦争」
日露戦争に至る経緯を語る際に日清戦争後の清国について書いておく必要があると判断しました。教科書の文章を要約してなるべく簡潔に書いておきます。捏造歪曲はしません。どうか私を信じてください。
【戊戌の政変】
清国を改革して近代化する動きが若き清国皇帝・光緒帝(1858~1927)のもとでおこったが、西太后(1835~1908)ら保守派のクーデターによってつぶされた。光緒帝は幽閉され、変法派(改革派)の多くは日本など海外に亡命した。
【義和団事件(北清事変)】
山東省で結社された宗教的武術的秘密結社である義和団が清国民衆の熱狂的支持を受け民衆とともに暴動をおこした。スローガンに「扶清滅洋(清国を扶け西洋人を撃滅する)」を掲げた暴動は拡大し、首都北京に大挙して入城した(1900年6月)。義和団と暴徒は誰彼となく外国人を襲い列国公使館を軒並み包囲した。
そして実は、西太后ら保守派の清国政府が陰に日向に義和団と暴徒を煽っていた。(筆者注:なんか現代にかぶる(ーー゛))
【北京議定書】
欧米列強は清国在留同胞の保護を名目に軍隊を派遣し、義和団の乱を徹底的に鎮圧した。
これを8カ国共同出兵といい連合軍のはしりとなった。
(画像、左より、英・米・露・英領インド・独・仏・オーストリア=ハンガリー・伊・日の兵士)
1901年清国は8カ国と北京議定書を締結し、莫大な賠償金(9億8千両)を支払う羽目になり、また国内に列強国守備兵が常駐することを認めさせられた(北京駐兵権)。
北京・紫禁城内の連合軍 ☟
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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363~366頁本文
【日露戦争】
ロシアに対しては日英同盟協約を後ろ盾に満州からの撤兵を強く要求し、ロシアも1902(明治35)年4月には清国と満州還付協定を結んで撤兵を約束した。しかし、そののちこの協定は実行されず、ロシアはかえって韓国との国境地帯にまで軍隊を増強し、さらに鴨緑江を越えて韓国の領土内に軍事基地を建設し始めた。
(中略)
日本国内では、対露強硬論の気運が高まっていたが、とくに大きな役割を果たしたのは新聞であった。
ロシアが清国との協定で、満州からの第2次撤兵を約束した期限は1903年10月8日であったが、実行されなかったため、『大阪毎日新聞』『東京朝日新聞』『万朝報』『二六時報』など発行部数が一日10万部前後の有力新聞は、ほとんど対露開戦論一色となった。
そして、対露外交交渉の妥結に期待して開戦の断を下そうとしない政府首脳や元老たちを激しく弾劾しはじめた。
(筆者・注)
①ラジオの日本初放送は1925年でこの当時ラジオ放送はない。メディア媒体は新聞と口コミのみ
②新聞のやり玉となった反開戦派の代表格は桂太郎首相と伊藤博文元老であった。
(中略)
日本側の主たる狙いは、満州を日本の利益範囲外と認めるかわりに、韓国における日本の軍事的・政治的優先権を確立することにあったが、ロシア側はこれを全く認めず、日露交渉はまったく行き詰った。
日本は1904(明治37)年2月、元老と政府・軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定し、日本海軍の旅順攻略と陸軍部隊の仁川上陸によって、日露戦争を開始した。
強国ロシアとの戦いは、日本にとって文字通り国家と国民の命運を賭けた戦いであった。
日本政府(第1次桂内閣)は開戦にあたって、この戦争がきわめて苦しい戦いになることを予測した。
そして、その巨額の戦費にあてるため、高橋是清(1854~1936)日銀副総裁を派遣してアメリカや同盟国のイギリスで外国債を募集した。
また、金子堅太郎を特使としてアメリカへ派遣し、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(1858~1919)に和平の仲介を依頼した。
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日露戦争の戦費は約17億円で当時の国家予算歳出分の数年分にあたります。そのうち8億円が英米で募集した外国債でしたが、実はロシアも外国債を発行して戦費に充てていました。
開戦当時は世界の大部分の国が日本の敗北を予想していたので、日本の外債発行はロシアに比べて不利な条件でしか発行できず、募集もままなりませんでした。ところが戦局が日本優勢になってくると状況が逆転しました。
戦時中の韓国国内はどうだったかというと、詳説日本史研究・詳説世界史研究・ともに記述がありません。高宗はロシア派(前の記事参照)でしたが、その政変前の親日政権の流れをくむ一進会という政治結社もあり、日本軍に協力しています。
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363~366頁本文
立憲政治を実現し国内改革に成功していた日本は、国民の支持のもとに総力をあげて戦うことができたが、専制政治(ロマノフ王朝)がおこなわていたロシアは、国内でこれに反対する運動が高まり、十分な戦力を発揮できなかった。
そのため戦況は、軍事的には日本の優勢のうちに進展した。
陸軍は遼陽・沙河の会戦でロシア軍を撃破し、数カ月の激しい攻防戦の末、1905(明治38)年1月にはロシアの東アジア最大の海軍基地である旅順をおとしいれ、さらに3月には奉天の会戦で勝利を収めた。
また、海軍も同年5月の日本海海戦で東郷平八郎(1847~1934)の指揮する連合艦隊が、ヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた。
(右画像)
連合艦隊旗艦三笠の艦橋で指揮を執る東郷大将
当時、ロシア国内では、ツアー(ロシア皇帝)の政府の圧政に対する民衆の反対運動が激化しており、1905年1月には、首都ペテルブルグで血の日曜日事件がおこり、各地でストライキが頻発するなど、情勢ははなはだ険悪であった。
しかし、日本も軍事的勝利は得たが、兵器・弾薬・兵員の補充が困難となり、戦費調達もおぼつかなくなって、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていた。
そこで、日本海海戦の勝利の直後、日本政府は正式にアメリカ大統領に和平の仲介を依頼した。
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血の日曜日事件は、のちにロシア第一革命の発端とされました。映画にもなった‘戦艦ポチョムキンの叛乱’がこの年の6月です。↑クリックで説明文にとびます。
バルチック艦隊が出港したのは1904年10月15日です。ちょうど109年前の今日ですね。これより遅れると港が凍って出港できなかったんですかね?w さて、この当時ヨーロッパからアジアに至る貿易航路の制海権は大英帝国がほぼ掌握していました。日英同盟協約に基づき英国は動きます。
ジブラルタルは現在でもイギリス領でイギリス軍が常駐しています。
のちに「3C」と呼ばれるカイロ(スエズ運河)・ケープタウン(喜望峰)・カルカッタ(インド)もイギリス領でした。
シンガポールとマラッカ海峡もイギリス領でした。
海上封鎖はしていません。軽量級の軍船はジブラルタルからスエズを通っています。ただし航路上にあまた有るイギリス領植民地の港には一切寄港できなくしたのです。
これは強烈に効きました。
当時のロシアの友好国だったフランス領の寄港地は少なく、バルチック艦隊は補給・修理・休息もままならぬまま、半年以上もかかって日本海に到達しました。艦も兵も疲弊しきっていたのです。
むろん、このことによって、連合艦隊の偉業ならびに東郷平八郎元帥の名声に傷がつくようなものではありません。大国ロシアの屈強な艦隊に開国から50年しか経過していない新興国日本の海軍が圧倒的勝利をおさめたことは世界を震撼させました。
日露戦争に日本が勝利したことは、日本国内および世界中に多大な影響を及ぼしました。
次回記事でくわしく述べます。
~~次回へ続く~~
今回の記事の画像はすべてウイキペディアより引用しました。
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/義和団の乱
wikipedia.org/wiki/日露戦争
wikipedia.org/wiki/日本海海戦
前の記事)④~「三国干渉と日英同盟-そのはざまの大韓帝国」
次の記事)⑥~「ポーツマス条約」
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究⑥~「ポーツマス条約」
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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366~367頁本文
【日露講和会議】
かねがね満州に対するロシアの独占的支配を警戒し、日露両国の勢力均衡を望んでいたアメリカ大統領セオドア=ルーズベルトは、日本政府の意向を受けてこの機会に和平の斡旋に乗り出し、ロシアもこれに応じた。
アメリカのポーツマスで開かれた日露講和会議は、ロシアが強い態度に出たため難航したが、1905年9月、日本側首席小室寿太郎外相とロシア側首席全権ヴィッテ(Vitte,1849~1915)との間で、日露講和条約(ポーツマス条約)の調印が行われた。
これによって日本はロシアに、
(1)韓国に対するいっさいの指導・保護・監督権の承認
(2)旅順・大連の租借権と長春・旅順間の鉄道およびその付属の権利の譲渡
(3)北緯50度以南の樺太の割譲
(4)沿海州とカムチャッカの漁業権の承認
などを認めさせ、また満州(日本の租借地などを除く)からの両軍の撤兵、清国に対する機会均等なども取り決められた。
こうして、日本は約110万の兵力を動員し、死傷者20万を越すという大きな損害を出しながら、ようやく日露戦争に勝利を収めた。
【日比谷焼打ち事件】
しかし、増税に耐えて戦争を支えてきた多くの国民は、日本の戦争継続能力について真相を知らされないままに、賠償金が得られないなどポーツマス条約の内容が期待以下だったので、激しい不満を抱いた。
東京では河野広中ら反政府系政治家や有力新聞①の呼びかけもあって、講和条約調印の当日、「屈辱的講和反対・戦争継続」を叫ぶ民衆が、政府高官邸・警察署交番・講和を支持した政府系新聞社・キリスト教会・などを襲撃したり、放火したりした。
(画像:1905年9月5日、東京日比谷公園でひらかれた講和条約反対の決起集会)
いわゆる日比谷焼打ち事件である。政府は戒厳令を発し、軍隊を出動させてこの暴動を鎮圧し、講和条約批准に持ち込んだ。
366頁欄外)
①『東京朝日新聞』『大阪毎日新聞』『万朝報』などの有力新聞は、日露講和条約の条件が明らかになると、いっせいにその条件が日本にとって不十分であるとし、「屈辱的講和反対」「戦争継続」を主張するキャンペーンを展開し、なかには桂首相・小村外相を‘探露’(ロシアのスパイ)と非難する記事を載せた新聞もあるほどであった。
日露戦争は、世界列強の複雑な利害関係を背景として行われただけに、国際政局に大きな影響をおよぼし、とくに東アジアにおける国際関係は大きく変動した。
東アジアの片隅にある有色人種の小国日本が、予想に反して白人の大国ロシアとの戦いに勝利を収めたことは、白人不敗神話を打ち破って世界に衝撃を与え、中国・インド・トルコ・フィンランドなどの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。
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イギリスにもポーツマスという都市があるので、わざわざ『アメリカの』って書いてあります。
今も昔も新聞メディアというのはあらぬ方向に大衆を煽るものなのですね。気をつけましょう。前の記事にも書きましたが、この当時まだラジオ放送はありません。マスメディアと言えば新聞しかなく、拡散は口コミでした。(日本でのラジオ初放送は1925年)
極東アジアでの南下が挫折したロシアは、またしてもヨーロッパでの南下に力を入れ始めます。そしてトルコで民族運動が高まったことにより、オスマントルコ帝国の力が更に削がれました。この2点は第一次世界大戦の遠因になっています。
『中国・インド・トルコ・フィンランドなどの民族運動の高まり』なるものにについて、世界史の教科書のほうから記述をひろってみましょう。
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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423頁囲み記事
【日露戦争とアジアの民族運動】
日露戦争の本質は、日・露 両帝国主義国家間の帝国主義戦争にほかならなかった。しかし、アジアの小国日本がヨーロッパの超大国ロシアを負かしたという一面は、ヨーロッパ帝国主義列強の圧迫に苦しむアジアの諸民族に素朴な感動と希望を与えるものでだった。
・孫文らによる中国同盟会の結成(1905)
・ベトナムのファン=ボイ=チャウの維新会による東遊運動
(日本への留学運動)
・インド国民会議による反英運動の高揚
(1906年のカルカッタ大会での4綱領決議)
・イラン立憲革命(1905)
・トルコの青年トルコ革命(1908)
などの民族主義運動は、日露戦争での日本の勝利になんらかの意味で刺激・影響をうけたものであった。
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よくこんな短い囲み記事のなかに帝国主義という言葉をずんどこ入れたものだと思います(苦笑)。よほど帝国主義がキライな執筆者なんですね。「帝国主義についてなんぞや?」というのは次回記事で引用して書きますが、こんな露骨に邪険な書き方をすると思想・信条がバレますよww。
日本史の教科書のほうには、「英国留学中のネル―少年(インド初代首相・当時16歳)が日露戦争の日本の勝利に大きな感銘を受けた。」という記事もあります。「日本に関する新聞記事切り抜き、また、日本についての英文の著作を好んで読みふけった」そうです。
あれ?フィンランドは??日本の教科書冷たいな(ーー゛) 書いてなかったです。
フィンランドは、ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15)で、スウェーデン王国の領土からロシア帝国の領土になってました。フィンランドの独立はロシア革命後(1917)で、ロシアへの対抗から第二次世界大戦では枢軸国側でした。あまり知られていません。
日露戦争の勝利によって、日本は欧米列強に認められ、列強国の仲間入りを果たしました。そのことを如実に現わしているのが、明治維新から日本が取り組んできた『不平等条約の改正』の実現です。
日本史の教科書に戻って引用します。
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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355頁本文
【条約改正】
第2次伊藤内閣になって、外相陸奥宗光(1844~97)のもとで、改正交渉はようやく本格的に軌道に乗った。
(中略)
イギリスは、シベリア鉄道敷設を進めていたロシアが東アジアに勢力を拡張することを警戒し、それと対抗する必要があった。
そこで憲法と国会をはじめ近代的諸制度を取り入れ、国力を増大つつある日本の東アジアにおける国際的地位を重くみて条約改正に応じた。
1894(明治27)年7月、日英通商航海条約の締結である。
(日清戦争の開始と同年同月です)
その内容は領事裁判制度の撤廃・最恵国条款の相互化のほか、関税については日本の国定税率を認めるが、重要品目の税率は片務的協定税率を残すというもので、この点ではまだ不十分であった。
イギリスに続いて欧米各国とも新しい通商航海条約が結ばれ、いずれも1899(明治32)年に発効した。
1911(明治44)年、改正条約の満期を迎え、外相小村寿太郎(1855~1911)は再び交渉を始めたが、日本が日露戦争の勝利を経て国際的地位を高めているだけに列国の反対もなく、関税自主権の完全回復が実現した。
(画像上:陸奥宗光 画像下:小村寿太郎/日本が不平等条約を結んでいたのは、英米仏露蘭)
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列強国の仲間入りを果たした日本に対して、欧米列強国の日本に対するアタリは強くなっていきます。さながら『おい日本!これからは本気出して対応にあたるからな!!』です。
日本列島防衛線の構築という初期の目的は達成されましたが、欧米列強国のあいだの仁義無用の熾烈な争いに日本は踏み込んでいかざるを得なくなってしまいました。そういう時代だったのです。
この時代、白人国家以外で独立の体裁を守っていたのは、日本・タイ・トルコ・イラン・エチオピア・リベリアだけです。イランに関しては本当に体裁だけで半植民地化されていました。エチオピアはイタリアに侵略されてます。
(リベリアは特殊な例で、アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国されました。)
~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
1枚目/外務省公式HP
2枚目/http://heiwa.yomitan.jp/4/3207.html
そのほかはウイキペディアより引用しました。
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/ポーツマス条約
wikipedia.org/wiki/安政五カ国条約等の不平等条約改正
前の記事) ⑤~「日露戦争」
次の記事) ⑦~「日本型・帝国主義とあらたなる敵国」
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究⑦~「日本型・帝国主義とあらたなる敵国」
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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361頁本文
【欧米列強の植民地獲得合戦】
19世紀末、日本がようやく近代国家を形成したころ、欧米先進資本主義諸国は早くも帝国主義段階に突入しようとしていた。
諸列強は生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を収めるためにこぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合ったが、その矛先は、アジア・アフリカなどの発展途上諸地域に向けられた。
368頁本文
日露戦争後)日本は東アジアの強国となり、急速に勢力を拡大し、欧米列強諸国に伍して国際政局で大きな影響力をもつようになった。国際社会において欧米列強と肩を並べる強国を建設するという明治維新以来の日本の目標はひとまず達成されたといえよう。
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さて、日本は日露戦争に勝利した後、帝国主義段階になっていったのでしょうか?次の記事で書きますが、朝鮮(大韓帝国)は1910(明治43)年に日本に併合されます。
現在の韓国では、併合されていた1910~45の期間を『日帝36年』と呼称して、屈辱の期間だと論調されています。
検索するとこんなキーワードが・・・((((;´・ω・`)))
『恨』って???
台湾は日清戦争後に日本統治領となってますから日本の統治は50年にもおよびます。しかしこのような論調はありません。現在の台湾では『日本統治時代』と呼ばれているようです。
そりゃ『大日本帝国』と国号をなのっていたのですから、帝国主義といえば帝国主義なのでしょう。しかしそれは、欧米列強の帝国主義と同様なものだったのでしょうか?
教科書引用部分から摘出『諸列強は生産物の販路を海外に広げ、また、直接に資本を輸出して利益を収めるためにこぞって積極的な対外進出政策をとり、植民地獲得を競い合った』日本もこれと同じことをやったと?・・・。
そもそも帝国主義って教科書の記載でどう定義づけられているのでしょうか?
世界史の教科書に記載されている箇所を引用して調べていきましょう。
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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408~409頁本文
【帝国主義】
帝国主義という言葉は、ローマ帝国時代からあり、国家の領土的拡大や植民地支配をさしていた。19世紀末に問題となったのは、イギリス保守党の拡張主義に対し、小英国主義①を掲げる自由党側がそれを「帝国主義」として非難したことに始まる。
408頁欄外
①19世紀半ばのイギリスの植民地拡張に反対する理論。植民地支配はかえって負担を増加させるとして植民地無用論を唱えた。主として自由党の主張に多い。
(中略)
帝国主義の)背景には資本主義列強の国内産業構造の変化があった。19世紀末には銀行・証券会社の巨大化によって、過剰資本が蓄積され、海外にも有利な投資先が求められていた。
(中略)
技術革新による第2次産業革命は新しい天然資源を必要とした。
その代表は石油とゴムであるが、錫・銅・亜鉛・ニッケル・硝石などの工業用に必要な金属はヨーロッパにはほとんど産出されず、すべてアフリカ・アジアの未開発地域に求めなければならなかった。
そこで有利な資本投下を海外に求めていた資本主義が、現地の安価な労働力を利用して、新しい企業(ゴム園・鉄道・油田など)を低開発地域で経営する傾向が生まれたのである。
その際、未開発地域がしばしば政治不安や国内混乱に陥っているため、経済が政治と結び付き、いろいろな名目で(租界・租借地の設定)国家が内政干渉を試み、その地域を勢力範囲または保護国化していった。
さらに、イギリスに続いてドイツ・フランス・アメリカ・ベルギーなども過剰資本投下地域の奪い合いから、国家単位の侵略的行動を進めるにいたった。
軍事支配・植民地の確保=分割といった現象が19世紀末から20世紀にかけて華々しくおこわれたのはこのためである。
このような国家の膨張政策を帝国主義と呼び、この政策が列強によって無制限におこなわれた1875年~1914年ころを、世界史上帝国主義時代と呼んでいる。
409頁・囲み記事
【白人の負担(白人の責務)】
イギリスの小説家キップリング(Kipling 1865~1936)は、後進民族にすぐれたヨーロッパ文明をもたらすのは白人の使命であるという「白人の負担(白人の責務)」という考え方を主張し、ヨーロッパ人の間に広がった。
これがダーウィンの進化論と結びつき、強者と弱者の別は、人間の優劣だとする社会ダーウィン主義となり、すぐれた民族が劣った民族を支配するのは自然の法則にかなうものだとされ、帝国主義を正当化した。
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この当時の日本では独占資本がまだ形成されていません。
日本の資本主義は日清・日露の戦争と同時進行で発達し、日本の財閥が多角経営でコンツェルン形態になり独占資本が形成されたのは1909(明治42)年です。
過剰どころか日本国内にまだ形成されていないものをどうやって海外に投資するのですか?
ゆえに、『過剰資本が蓄積され』『有利な資本投下を海外に求めていた資本主義』『経済が政治と結び付き、いろいろな名目で(租界・租借地の設定)国家が内政干渉を試み』という部分は日本型帝国主義には当てはまらないといえるでしょう。
むしろ『政治主導で資本主義経済を指導・育成した』のです。日本国の防衛線構築のために侵略者である欧米列強のやり方=「独占資本主義と帝国主義政策」を模倣したのです。
いわゆる富国強兵ですね。
日本列島の周囲が欧米列強国に植民地化されそうならば、その前に日本がその地域を勢力範囲または保護国化した。
「やられる前にこっちからやる」
「やられそうなら先にやる」
そういう弱肉強食の時代でした。
日本の意思としては、台湾・朝鮮・満州に日本とともに欧米列強と戦ってほしかったのです。
だから、台湾・朝鮮・満州に積極的に投資をし、京城と台北には帝国大学までつくって、日本国内同様に富国強兵化を図ったのでした。資本が国内に過剰だったから投資したのではありません。むしろ国内は苦しかったのですよ。
京城と台北の帝国大学は、大阪・名古屋よりも先に創られています。国立の最高学府を内地の大阪・名古屋よりも先につくったんです。
ただ、残念ながら、日本人のなかに『日本人の負担(日本人の責務)』みたいな考え方を持ってしまった人も少なからず居たのではないかと思います。満州国に関しては、欧米の植民地政策に
近くなってしまいました。そして、日本のやり方は真っ正直すぎました。
そんな中、日本にとって新たなる脅威の敵国が東アジアに進出してきます。
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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423頁本文
極東での積極的進出を断念したロシアと、中国東北部(筆者注:満州のこと)の利権を南北に分かち、それぞれの勢力圏(ロシアは北部・日本は南部)として了承することで、急速に接近していった。
すなわち1907年、日露協約が結ばれ、それぞれの勢力圏を相互に尊重することで両国は提携した。
これと並行してロシアの同盟国フランスとの間にも日仏協約が結ばれ、日本の韓国における優越的地位と、フランスのインドシナにおける優越的地位を相互に承認した②。
一方アメリカは、1905年、桂=タフト協定により、日本の韓国に対する優位的地位とアメリカのフィリピンに対する優位的地位を相互承認した。
しかし、中国東北地方(満州だお)については門戸開放の原則を主張し、米資本の参入の機会をうかがっていたから③、日・露による東北地方(満州って言うとるやろが!)の利権分割は極めて不快なものであり、また極東における日本と英・仏・露の提携の成立は、アメリカに孤立感を抱かせることになった。
このためアメリカの日本に対する好意は冷却し、両国の関係は次第に険悪な方向にむかっていった。アメリカでの日本人移民排斥運動④が始まったことなどは、その顕著な表れである。
423頁欄外
②このため、ベトナムのファン=ボイ=チャウの東遊運動(日本への留学運動)は、フランス政府の要請を受けた日本政府の弾圧によって、挫折に追い込まれた。
(筆者注:クリックしてみてください。弾圧という言葉は不適当です。)
③たとえば、アメリカの鉄道王ハリマンは南満州鉄道の経営への参加に強い意欲を持ち、一時日本政府との間に南満州鉄道を日米合弁事業とする予備協定を成立させていた。
④1906年、カリフォルニア州での日本人児童の通学拒否事件に始まり、さらに州議会による移民制限法・日本人土地所有禁止令の可決へと排斥運動はしだいに激化し、全米に広がっていった。最終的には1924年の移民法により、日本人移民は完全に停止された。
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アメリカってなんなん?(--〆) ~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
1枚目/キャプチャ画像
6枚目/http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm
そのほかは自前の教科書より引用しました。
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/帝国主義
wikipedia.org/wiki/植民地
(☝GIFの画像にて欧米列強の植民地拡大の様子が一目で分かります。必見!)
前の記事) ⑥~「ポーツマス条約」
次の記事) ⑧~「韓国併合と黄禍論」
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究⑧~「韓国併合と黄禍論」
このあたりからは私なんかよりもはるかに詳しい方がたくさんいらっしゃるので、もう教科書の記述を書き起こすだけにしていきます。いいかげん早く終わりたい!!(笑)。この記事含めてあと4回で終わり。
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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367~368頁本文
【韓国併合】
日露戦争の勝利によって日本の大陸進出は本格化した。すでに日露戦争中の1904(明治37)年8月に日本は韓国と第一次日韓協約を結び、日本人顧問を派遣して韓国の財政と外交に介入した。翌1905年には、アメリカとの間に桂-タフト協定を取り交わし、日本の韓国、アメリカのフィリピンに対する指導権を相互に確認しあった。
ついで、戦後の1905(明治38)年11月には、第二次日韓協約(韓国保護協約)を結んで日本は韓国の外交権を握り、漢城(現・ソウル)に韓国総督府をおき、伊藤博文が初代総監となって総監政治をはじめた。こうして日本は韓国を保護国とした。
これに対して韓国は1907(明治40)年6月、ハーグの万国博覧会に皇帝の密使を送って抗議したが、いれられなかった(ハーグ密使事件)。
(筆者注:相手にされるわけないだろw)
日本政府はこの事件をきっかけに、同年7月韓国皇帝(高宗)を退位させ、第三次日韓協約を結んで、その内政権を奪い、韓国の軍隊を解散させた。
韓国内にはこれに反対して反日武装闘争の気運が活発化し、解散された軍隊も加わり、義兵運動が高まったが、日本は軍隊を出動させてその鎮圧にあたった。
1909(明治42)年10月、伊藤博文がハルビン(満州)で韓国の民族活動家安重根(1879~1910)に暗殺されると、日本は翌年1910(明治43)年8月、ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし、その名称を朝鮮に、漢城を京城と改めて天皇直属の朝鮮総督府をおいてその統治にあたった。
朝鮮総督には武官が任命され、そのもとで総督府は地税の整理と土地調査事業をすすめ、1918(大正7)年に完了した。
その結果、日本人地主の土地所有が拡大した反面、朝鮮の小作農で没落する者が多くなり、その一部の人々は仕事を求めて日本に移住した。
1908(明治41)年に韓国の拓殖事業を推進するための国策会社として東洋拓殖会社が設立され、農業経営や灌漑・金融事業を行った。
また、日清戦争後から日本の手によって建設が進められていた京釜鉄道(京城-釜山間)が、1905(明治38)年に完成し、産業の発達と軍事輸送に大きな役割を果たした。
<画像上:ハーグ密使(李儁、李相卨、李瑋鍾) 画像中:安重根 画像下:東洋拓殖株式会社京城支店>
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「ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし」
??? なにこの意味不明な記述!!併合と植民地化は全く違うんだけど(ーー;)
併合して日本国になったんだから、武装解除と土地調査は当たり前。刀狩りと検地だよ。
似た例にハワイがあるけど「アメリカはハワイ王国を併合し植民地とし」とは詳説世界史に書いてないぞw
そして、ハワイは好カードで朝鮮半島はババだったorz (ーー゛)
<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書、糟谷憲一『朝鮮の近代』世界史リブレット43 など>の記述↓
出典サイト→ http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo14_3.htm
アゴラの池田信夫氏が、タイムリーな事に詳しく分かりやすく『日韓併合』にブログで書いておられますので、よかったらご参考にどうぞ → http://agora-web.jp/archives/1565597.html
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368~369頁本文
【黄禍論とドル外交】
日本の強国化、とくに満州への勢力拡大は、日本に対する列強の警戒感を高め、黄禍論(Yellow Peril)①の矛先が主として日本に向けられるようになった。
<368頁欄外>
①黄色人種が白人をアジアから駆逐しようとするのではないかと警戒し、ヨーロッパ諸国はキリスト教文明を守るためにこれと対決すべきであるとする主張で、すでに日清戦争直後から、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世らが盛んに唱えていた。 くわしくは→黄禍論
アメリカが日露戦争で日本に好意的立場をとり講和を仲介したのは、ロシアが満州を独占的に支配することを警戒したためであったが、戦後、日本の南満州への進出が盛んになると、満州の鉄道に関心をもつアメリカとの対立が芽生え始めた。
すでに日露講和条約締結直後の1905(明治38)年、アメリカの鉄道企業家ハリマン(Harriman 1848~1909)は長春・旅順間の鉄道を日米共同経営とすることを提案したが、日本政府はこれを拒否した。
その後も、アメリカは満州における門戸開放を唱えて、1909(明治42)国務長官ノックスが、満州における列国の鉄道権益を清国に返還させ、これを列国の共同管理のもとにおくこと(満州の鉄道中立化)を提案したが、日本とロシアがこれに反対して、この提案は実現しなかった。
また日露戦争のころからアメリカ・カナダなどで、日本人移民排斥運動が労働組合などを中心に活発に展開されるようになり、1906(明治39)年にはサンフランシスコで、日本人が公立学校への通学を禁止される事件(日本人学童隔離問題)がおこった。
また、1913(大正2)年にはカリフォルニア州で、日本人(アメリカ市民たり得ない外国人)の土地所有を禁止する法律が制定されるなど、日本人移民に対する圧力も強まってきた。
日露の協調が進むと、アメリカは1910(明治43)年、5000万ドルの借款を清国に与え、イギリス・ドイツ・フランスをさそって四国借款団を組織し、豊富な資金に頼っていわゆる「ドル外交」を進めた。
こうして東アジアにおける情勢は日米の対立をはらんでしだいに新しい様相を示していくのである。
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1911(明治44)年の辛亥革命で清朝が倒されたので借款は成立していたものの実行はされなかったようです。
アメリカってなんなん?(--〆) ~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
1.2枚目:ウイキペディアより
4枚目 :ウェブサイトをキャプチャ
5枚目 :http://heiwa.yomitan.jp/4/3207.html
その他 :手持ちの教科書をスキャン
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/韓国併合
wikipedia.org/wiki/ハワイ併合
wikipedia.org/wiki/ドル外交
wikipedia.org/wiki/門戸開放
前の記事) ⑦~「日本型・帝国主義とあらたなる敵国」
次の記事) まだ書いてません (ーー゛)
目次) 朝鮮半島史
尺があまったので、してやったりのロシアンの画像
朝鮮半島近現代史研究⑨~「ベルサイユ条約と三・一独立運動」
この記事含めてあと3回で終わりです。
今回の記事で述べる『三・一独立運動(1919年)』以降、朝鮮半島に関する記載は1945年までありません。詳説日本史研究にも詳説世界史研究にも記載はありません。日本の台湾の統治(1895~1945年)に関しても一切記載がありません。
韓国からの圧力があって記載されていない?? いえいえちがいます。
韓国の連中はむしろ記載してほしいはずなんです。「日本統治時代はこんなに日本が酷いことをしていた」と
日本の権威ある高校歴史教科書にいっぱいいっぱい書いてほしいはずなのです。日本国内の媚韓派もねww
残念ながら「南京虐殺事件」と「七三一部隊」に関しては記載があります。
では何故にこれ以降の朝鮮統治について書いてないのか??簡単です。書く程の歴史的事実が無かったのです。
朝鮮半島の統治も台湾の統治も歴史教科書に書く程の事もないおおむね平和的な統治だったということでしょう。
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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405~407頁本文
【パリ講和会議】
1919年1月、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和)会議はイギリス・アメリカ・フランス・イタリア・日本の5大国、とりわけ英米仏の3大国の主導権のもとに進められ、同年6月にベルサイユ条約が締結された。
(筆者:注)
ソ連が参加していないのはロシア革命勃発(1917年)後の内戦でそれどころではないからです。
ロシア革命は第一次世界大戦終結の原因の一つです。
共産主義国家のソ連が国際連盟の加入を許されたのは1934年になってからです。
この条約は、はじめアメリカ大統領ウィルソンが理想主義的な原則(平和原則十四カ条)を掲げていた。
しかし、実際には大国の利権に基づくもので、敗戦国であるドイツに対する条件ははなはだ苛酷なものであった。
~(中略)~
日本はパリ講和会議において、山東半島の領土権を中国(袁世凱軍事政権)に返還することは承認したが、ドイツのもっていた山東省の権益を引き継ぐことを認めさせ(いわゆる対華二十一カ条の要求の一部)、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島(パラオなど北太平洋の島々)を国際連盟から委任統治することになった。
(筆者:注)
辛亥革命によって清朝は倒されましたが、孫文は政権を獲れずに失脚します。
したがってこの段階の中華民国は袁世凱軍事独裁政権です。
袁世凱の死(1916年)後、大陸は各地の軍閥による分裂状態に陥ります。(1930年代の図)→
孫文の勢力はマイナーな政治結社に過ぎず、共産党はまだ結成さえされていません。
(結成は1921年)
日本が進出したのは統一されていた中華国家ではないのです。
これ大事!!試験に出ますw 中共のウソに騙されてはいけません!!
失脚しまたも日本に亡命した孫文は東京で新たに中華革命党を結成(1913年)し、これが改名(1919年)したのが現在まで続いてて台北に本部がある中国国民党です。現在の中華人民共和国では袁世凱政権が二十一カ条要求を受け入れた日を国恥記念日としてたりします。意味が分からないw
また、日本は人種差別禁止の取り決めを国際連盟の規約のなかに取り入れるように提案し、多くの国の賛成を得たが、アメリカ・イギリスなどの大国の反対にあって、その提案は採用されなかった。
日本が山東省の旧ドイツ権益を継承したことに対して、中国では激しい反対運動がおこった。
1919(大正8)年5月4日、北京では学生を中心とする大規模なデモがおこり、ベルサイユ条約調印反対、「打倒日本帝国主義」の声が高まり、日本商品のボイコット(日貨排斥)が全国的にひろまった。これがいわゆる五・四運動である。
こうした国内の反対のため、中国代表は、結局、ベルサイユ条約には調印しなかった。
(国内分裂中の北京政府代表・代表とは名ばかり=だって駐米大使だよw)
また、朝鮮においても同年の初めごろから日本の植民地支配(植民地とちゃうで)に反対して、独立を求める機運が高まりつつあったが、同年3月1日、京城(ソウル)において、「独立万歳」を叫ぶ集会が行われ、独立運動はたちまち朝鮮各地にひろまった(三・一独立運動または万歳事件)。
日本は軍隊や警察を出動させてその鎮圧にあたった。同時に、朝鮮総督の資格を現役の軍人から文官にまで拡大し、憲兵警察を廃止するなど、民族運動の高まりに宥和的姿勢をとった。
【三・一独立運動と文化政治】
~(前略)~
1919(大正8)年、前韓国皇帝高宗(李太王)が死去すると、日本による毒殺との噂が流れ、民族感情を刺激した。同年2月に朝鮮の在日留学生が東京で独立宣言を発表し、ついで高宗の葬儀を前に同年3月1日、ソウルのパゴタ公園で多くの民衆を前に33名の宗教家が署名した独立宣言が朗読された。
これをきっかけに、朝鮮の各地で独立を求める集会やデモ、労働者のストライキ、学生たちの同盟休校があいついで展開された。
日本は軍隊と警察力を動員してその鎮圧にあたり、運動はしばしば騒擾(そうじょう)事件に発展した。武力鎮圧による朝鮮側の死者は7000人以上に達したといわれる。
(ほんまかいな?だいぶ盛っとるやろw あとなんでこの時代やのに写真やなくてレリーフ?ウソ臭いw)
日本政府はその後、朝鮮総督の任用資格を現役の軍人から文官にまで拡大し、憲兵警察を廃止するととともに、新任の斎藤実(1858~1936)総督のもとで「文化政治」を実施し、灌漑施設の拡充・耕地整理などの産米増殖計画を推進するなど、朝鮮統治の宥和的姿勢をとった。
【パリ講和会議と人種差別撤廃問題】
パリ講和会議の5大国の1つであった日本は、山東問題・南洋諸島問題とならぶ3大要求の1つとして、国際連盟加盟国は外国人に対して人種や国籍による差別を設けてはならないとする人種差別禁止の条項を国際連盟規約のなかに盛り込むことを提案した。
これは、アメリカやカナダでの日本人移民排斥の対応策という意味もあったが、そこには、国際社会で欧米列強の仲間入りを果たした証を求める日本の国民感情が反映されていた。パリの日本全権団は牧野伸顕を中心に、各国の代表と折衝を重ねたが、日本案の採択は困難であった。
アメリカでは人種差別問題は自国内の問題であり、日本の提案は内政干渉にあたるという強い反発があり、イギリスも、自治領内、とりわけ白豪主義を国の基本政策とするオーストラリアの強い反対にあって、両国とも日本案には賛成しなかった。
日本はさらに、文言を緩和してその趣旨を連盟規約の前文に入れるよう提案し、国際連盟委員会で16カ国のうち11カ国の賛成を得たが、英米両国は依然反対し、重要事項は満場一致を要するという原則により、結局、人種差別撤廃案は不採択になったのである。
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英米仏に比べればロシアはまだ組みしやすかったということになるのかな??
以後の日本は外交で欧米列強とガンガンやりあうことになるのですが、所詮は新参者、やりこめられることになります。弱っちい外交に不満な国内世論もおさえられず、ついには軍部の政治介入・政党内閣の崩壊・挙国一致内閣の発足(1932年)へとなっていきます。
背景に世界大恐慌(1929年)もあります。有力な植民地をもたない独・伊・日本など(持たざる国)は経済が大苦境に陥りました。持てる国が英米仏などですよ。閉鎖的な自国領勢力範囲内(植民地含む)に対して高い関税をかけて(ブロック経済)他の国との貿易を排除し、恐慌を乗り切ったのです。
世界大恐慌は第2次世界大戦の遠因です。開戦の原因も終戦の幕引きもアメリカ合衆国なんです。F.ルーズベルト(民主党)は大統領を4選した(1933~1945)最強のPresident、大恐慌からの巻き返し政策(ニューディール政策)も第2次世界大戦参戦も彼の任期中の出来事でした。
(4選を果たした半年後に死去・1945.4月)
アングロサクソンってなんなん?(--〆) ~~次回へ続く~~
今回の記事の画像の引用元
1~4枚目:手持ちの教科書をスキャン
5枚目 :ウイキペディアのウェブサイトをキャプチャ
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/五四運動
wikipedia.org/wiki/三・一運動
wikipedia.org/wiki/日本統治時代の朝鮮
wikipedia.org/wiki/大日本帝国が主張した人種的差別撤廃提案
wikipedia.org/wiki/ブロック経済
前の記事) ⑧~「韓国併合と黄禍論」
次の記事) まだ書いてません (ーー゛)
目次) 朝鮮半島史
朝鮮半島近現代史研究⑩~「朝鮮共和国から分立-そして朝鮮戦争」
この記事含めてあと2回で終わりです。
前回の記事で述べましたように『三・一独立運動(1919年)』以降、朝鮮半島に関する記載は1945年までありません。詳説日本史研究にも詳説世界史研究にも記載はありません。日本の台湾の統治(1895~1945年)に関しても一切記載がありません。
ですから、うちで書いてる朝鮮半島史はいきなり戦後(第二次世界大戦後)になります。
連合国側の首脳が極東アジアの戦後処理をどうするつもりだったのか?引用して書いておきます。
あ、その前に第二次世界大戦中には中華大陸に3っつの政権があったことも書きくわえておきます。
当時の中華大陸は列強国による半植民地化と各地の軍閥支配によって分裂状態で統一政府はありません。
①首都南京から脱出した蒋介石の国民党政府(重慶)
②日本と結んだ王兆銘の南京政府(日本寄りの政権)
③延安に引き籠っていた毛沢東による共産党解放区
(第2次国共合作で国民党とは一時休戦・紅軍は国民党軍に貸与)
南京事件(1937年)で日本軍に南京を追われた蒋介石と日本と結んだ王兆銘(国民党の実力者)は超仲悪い対立関係にありました。国民党内の内紛・権力争いですね。今も昔もこの国は変わらないw 国民党もかわらないw
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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481頁本文
1943年1月、F.ルーズベルト・チャーチルの両首脳はカサブランカ会議をおこなって、枢軸国に対する無条件降伏の要求を決定した。
同年11月イタリアの降伏直後、米英両首脳と中華民国の蒋介石はエジプトのカイロで会談し(カイロ会談)、対日問題についてのカイロ宣言を発表して、日本が第一次世界大戦後奪取した太平洋上のすべての島を取り上げ、満州・台湾は中国に返還すること、朝鮮を独立させることを決定した。
また日本の無条件降伏も約した。
<画像は左から、蒋介石・F.ルーズベルト・W.チャーチル/カイロにて>
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これらの約束をしたのは国民党政権(重慶政府)の蒋介石です。なんで現在の共産党独裁・中華人民共和国がこれを引き継いでいるのか不思議だし、腑に落ちないし、立腹もいたしますが、国際社会の外交ではよくあることなんです。先進国(列強国)が『もうそれでいいや!』となれば『それでいい』ことになるのです。
ちなみに国際連合発足時の常任理事国は中華民国でした。中華人民共和国の国連加入は1971年です。じゃあなんで中華人民共和国がいま常任理事国なん?ってほとんどの人が思うでしょう。強権(ゴリ押し)によって常任理事国の地位を奪い取って、さらに中華民国を『国』ではなく『地域(Chinese-Taipei)』にしたんです。
中華民国はこれに抗議して国連を脱退しました。
くわしくは → wikipedia.org/wiki/アルバニア決議
まったくもって酷い話ですよ。 ┐('~‘;)┌ 子供心にも酷いって思った!リアルタイムでなっ!
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489頁本文
カイロ会談で戦後の独立が了承されていた朝鮮は、日本の降伏によって植民地支配(植民地支配とちゃうで!併合したんやで!)から解放されて、建国準備委員会を中心に独立政府樹立の動きが始まり、1945年9月には朝鮮人民共和国の成立が宣言された。
そのほか、大戦中に国外にあったグループも、祖国建設に参加することを熱望した。それらには、
・亡命先のアメリカで反日独立運動を進めてきた李承晩、
・中国国民党と関係の深いグループ
があり、また共産主義勢力にも、
・ソ連の支援で抗日ゲリラ闘争を進めてきた金日成の率いる祖国光復会
・中国共産党とともに戦った延安派
などがあった。
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国難に際して、国内をまとめきれないのはいつものことですね。もう飽きましたよ。ずっと未来永劫-千年でも万年でもやってろ!w カイロ会談にソ連(スターリン)は招かれなかったので案の定ややこしいことになります。
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489~490頁本文
ところが朝鮮の将来を決定したのは、北緯38度線を境界に分割占領した米・ソの動向であった。(筆者注:ようするに第二次世界大戦中.1945年の軍事占領ね)
1945年末に開かれたモスクワでの米・英・ソの3国外相会談では、朝鮮を5年間、米・英・中(蒋介石政権)・ソ・の信託統治下におき、その間に独立国家建設の準備を進めることが決められた。
そしてその準備のための臨時政府の組織に関しては、米ソ共同委員会が朝鮮人の諸団体と協議することとされた。
ところが、民族の自主性を求めて信託統治に反対する大衆運動が展開される一方、朝鮮共産党は外相会談の支持を発表するなど、朝鮮の政治情勢は左右に分極化した。
1946年と翌47年に開かれた米ソ共同委員会が協議団体の条件で分裂すると、アメリカは朝鮮問題の解決を国連総会に付託した。
1948年5月、国連臨時朝鮮委員会のもとで南朝鮮だけの単独選挙がおこなわれ、8月にはアメリカ型の大統領制に議院内閣制を加えた憲法が制定され、大韓民国が成立した。
初代大統領には親米反共主義者の李承晩(1875~1965.在1948~60)が就任した。
これに対し、北部でも金日成(1912~94.首相1948~72.主席72~94)を首相として朝鮮民主主義人民共和国の独立が宣言され、南北の分立が始まった。
<画像上・李承晩、画像下・金日成>
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権力者が政権掌握するために反対派を大量に虐殺したことは書いてありませんでしたね。
わたくしもこんなのを文章に打つのは面倒だし腹立たしいのでリンクを貼っておきます。
wikipedia.org/wiki/保導連盟事件
wikipedia.org/wiki/済州島四・三事件
wikipedia.org/wiki/聞慶虐殺事件
wikipedia.org/wiki/日本漁民の拿捕・抑留・虐殺(李承晩ライン)
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481頁本文
朝鮮戦争は1950年6月25日、南北間の軍事衝突が続いていた北韓38度線を越えて北軍が攻勢に出たことに始まった。戦争が勃発する直前の情勢は、朝鮮民主主義人民共和国に有利と思われた。
共和国の人民軍は装備と兵力で韓国軍を上回り、アメリカの対中ソ防衛ラインには朝鮮半島は含まれていなかった。人民軍はまたたくまにソウルを陥落させ、半島南部の釜山付近にまで到達した。
ただちに国連安全保障理事会が招集されたが、中国の国連代表権問題(中華民国なのか中華人民共和国なのか)で理事会をボイコットしていたソ連が欠席したため、共和国(北朝鮮)の軍事行動を侵略行為とするアメリカの提案が採択された。
これをうけて韓国軍を支援するために、16カ国で構成される国連軍が組織された。
国連軍はアメリカ軍を中心に構成され、総司令部は東京におかれた、マッカーサーが総司令官に任命された。
1950年9月に国連軍が仁川に上陸して戦局は逆転した。
しかし、国連軍が38度線を突破し、中国国境の鴨緑江にまで進出すると事態は変わった。
アメリカは武力による朝鮮半島の統一を考えたのである。
ところが、自国の安全保障の危機をみた中国(中華人民共和国)は10月、「抗米援朝」の人民義勇軍を派遣し、国連軍を押しかえし、ふたたびソウルを占領した。
その後、戦局は38度線をはさんで一進一退をくりかえし、この間核兵器の使用や中国本土攻撃にこだわったマッカーサーは解任された。
1951年6月、ソ連国連代表マリクの提案で休戦交渉が開始された。
1952年11月には、早期停戦を公約してアイゼンハワー(1890~1969.在1953~61.共和党)がアメリカ大統領に当選し、翌53年3月にはスターリンが死亡した。
米ソ指導者の交代は板門店での休戦交渉に転機をもたらした。1953年7月27日休戦協定が調印され、南北朝鮮の分断は38度線をはさむ停戦ラインで固定化された。
満3年に及ぶこの戦争は朝鮮の国民や施設に甚大な被害をもたらし、南北の国民に感情的な対立を残した。また、南北朝鮮は東西対立の前線として常に臨戦態勢を維持せざるをえず、双方で独裁的な体制がつくられる原因となった。
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少しだけ年表を捕捉
1949年10月 中華人民共和国成立・毛沢東が国家主席に
1949年12月 蒋介石が台湾に逃れ、中華民国(国民党政府)を維持
1951年9月 サンフランシスコ平和条約・日本の主権回復
日本は政治的には朝鮮戦争にまったく加担していません。戦争特需は偶然です。
中・ソはサンフランシスコ平和条約に調印していません。なのでのちに個別交渉
さいごにソウルを占領したのは人民義勇軍(実態は人民解放軍)ですって! ウププw
今回の記事の画像の引用元
1~3枚目:ウイキペディアより
4枚目 :手持ちの教科書をスキャン
もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。~~おしまい~~
wikipedia.org/wiki/朝鮮人民共和国
wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争
前の記事) ⑨~「ベルサイユ条約と三・一独立運動」
次の記事) まだ書いてません、最終回です。
目次) 朝鮮半島史
⑪~最終回「暴動とクーデターに明け暮れる現代朝鮮」
長かったなあ((((;´・ω・`)))
前回・前々回の記事で述べましたように『三・一独立運動(1919年)』以降、朝鮮半島に関する記載は1945年までありません。詳説日本史研究にも詳説世界史研究にも記載はありません。日本の台湾の統治(1895~1945年)に関しても一切記載がありません。
が、詳説日本史研究のまったく別な事の記載に統治ぶりがうかがえるものがありましたので、そのまんま貼ります。
<詳説日本史研究 384頁より>
日本は国立の最高学府である帝国大学を名古屋・大阪よりさきにソウルと台北に設立しています。日本の統治は欧米列強の植民地統治とは異なるものだったことが分かる一端ではないでしょうか?
では、朝鮮戦争後の半島について世界史教科書に書いてあることを引用していきましょう。
そんなに文章量は多くありません。とっとと終わりましょうw
詳説世界史研究(山川出版社 2002年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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503頁本文
韓国の李承晩政権は反共イデオロギーと国民の反日意識を利用して独裁的体制を築き、中国封じ込め政策をとるアメリカの経済・軍事援助によって支えられていた。
しかし、アメリカの経済援助はかえって農業と零細企業を苦しめ、政府と結びついた財閥系企業だけが優遇された。
1950年代末にはアメリカの経済援助が削減されて韓国経済が不況に陥ると、国民の生活苦への不満と民主化の要求が高まった。
<当時のアメリカ大統領はアイゼンハワー(共和党・任期1953~61.1月)次の大統領がJ.F.ケネディ(民主党)>
1960年4月、学生を中心に民主化と統一および経済的自立を求める革命運動がおこり、李承晩は失脚した。
しかし、学生らの南北統一運動が高まると、翌1961年6月朴正煕(パク.チョンヒ 1917~79 在1963~79)は軍部クーデターをおこした。
←朴正煕(パク.チョンヒ:日本名・高木正雄)
軍政は1963年から民政へ移行し、朴正煕は大統領に就任した。
朴政権は国内的に強権的体制を維持しつつ、対外的にはベトナム戦争に派兵するなど対米依存関係を継続し、対日関係の改善をはかった。
1965年には国内の反対を押し切って日韓基本条約を締結し、以後大量に流入する日本資本をてこに経済発展をはかった。
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ほほうっ!世界史ではこんな記述なんだね。事実上の賠償金(対日請求権)として日本からぶんどった8億ドル(当時のレートは1ドル=360円.固定・)をインフラ整備と経済発展にぶっこんだことは書いてないんだww いちおう日本史の教科書には日本の賠償金について書いてはある。↓
<詳説日本史研究 480頁より>
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531~532頁本文
韓国・台湾・香港・シンガポールのアジア NIES は外国からの資本と技術の導入によって輸出を志向した産業の育成に成功し、1970年代以後顕著な経済発展をとげて「4匹の昇竜」と称されるようになった。しかし、他方では知識人・学生・都市中産階級や民衆の反政府運動を抑圧し国内治安を維持するため、いずれも権威主義的独裁体制がとられた。
朝鮮半島では、米中接近とデタントの国際情勢を背景に、分断以来初めて南北政府間交渉が進められ、72年統一の原則を定めた南北共同声明が発表された。ところが韓国の朴正煕政権は民間での統一議論を抑えこむため、強権支配を強化する「維新体制」(第4共和政)を発足させた。
これに対抗する民主化運動の指導者で大統領候補であった金大中(キム・デジュン 1925~)は、73年韓国当局によって東京から拉致された。
その後、韓国は第2次石油危機の影響で経済混乱に陥ったが、1979年、朴大統領が側近によって暗殺されると、政治的自由と南北統一を求める運動が高揚した。
しかし、1980年、変革を恐れる軍部は戒厳令をしいて民主運動を厳禁し、抵抗する光州の学生・市民多数を虐殺した(光州事件)。そして同年軍人出身の全斗煥(チョン・ドファン 1931~ 在1980~88)政権が成立した(第五共和政)。
全斗煥は1984年訪日して日韓関係の強化をはかり、1986年からは原油価格の低落、円高など国際経済環境も好転して韓国経済は順調に発展した。
しかし同時に全政権と一族の不正蓄財が暴露され、全は政権を追われた。
1987年大規模な反政府運動が展開されるなか、与党の盧泰愚(ノ・テウ 1932年~ 在1988~93)は大統領直接選挙制への改憲・政治犯の復権・言論の自由の保障などを認めた民主化(6月29日)宣言をおこない、同年末の大統領選挙で勝利した。
しかし、1988年の国会議員選挙で野党が躍進したため、金大中の平民党を排除して3大政党による保守合同を強行した。
盧泰愚政権はまた、冷戦の終結へむかう国際環境のなかでソウル・オリンピック(1988年)前後から対ソ接近を本格化させ、1990年9月国連で韓ソ国交が正式に樹立された。
また中国との関係改善にも乗り出し、1991年には南北朝鮮の国連同時加盟に成功した。
さらに、1992年の大統領選挙で与党の金泳三(キム・ヨンサム 1927~ 在1993~98)が当選し、1993年2月に32年ぶりで文民政権が誕生した。金泳三は権力者の不正腐敗を摘発して国民の高い支持を獲得し、経済の活性化に取り組んでいる。
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韓国に関する教科書の記載はここまでです。このあとの大統領は、
金大中(1998~2003)・ 盧武鉉(2003~2008)・ 李明博(2008~2013)・ 朴槿恵(2013~)
年表を少し足しておきます。平成以降の出来事は面倒なのでリンク貼りません。
1985年 プラザ合意
1986年 GATTウルグアイラウンド
1987年 大韓航空機爆破事件
1989年 平成元年・天安門事件・ベルリンの壁崩壊・米ソ首脳会談=冷戦終結
1990年 東西ドイツ統一
1991年 ソ連邦消滅 湾岸戦争
同じページに ↓ の囲み記事もあります。
本文の記載もどうでもいいというか、こんなに詳しく書かなくていいのに、と思ってキーボード叩いてましたが、これは更ににどうでもいい囲み記事です。
韓国大好きな執筆者の方が火を吹きながら書いたんでしょうか? ww 単なる大衆暴動だよ
1929年の光州学生事件は教科書の本文には記載されてませんよ。
ウイキ先生によると【Category:日本統治時代の朝鮮の事件】というのはこんなにあるらしいんだけど、どれひとつ日本の歴史教科書には記載されていません。
ではさいごに北朝鮮についての記載を引用します。
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540頁本文
朝鮮民主主義人民共和国は、国家指導者としての金日成に党と人民が一体化するという体制を強化した。だが、経済困難に直面しつつ、韓ソ国交樹立・ソ連崩壊・中韓国交樹立という国際情勢の変化で孤立化が進んだ。
局面の打開を北朝鮮は日本との国交交渉の開始(1990年9月)、アメリカとの接触に求め、91年には北東部に自由経済貿易地帯を設置して対外経済開放にも乗り出した。
韓国との関係では、91年5月南北国連同時加盟を果たし、南北首相会談の成果として92年には南北間の「和解・不可侵・交流協力」の合意と朝鮮半島の「非核化」共同宣言が批准された。
その一方で、92年4月の憲法改正では、国家の指導方針である主体思想(チュチェ思想)の独自性を強調し、社会主義体制の擁護を再確認した。
ところが、国際原子力機関(IAEA)が核査察を求めたことに対して、北朝鮮が非協力であったため、核拡散を防止したいアメリカとの間で協議が続けられた。
この間、日朝国交回復交渉と南北対話も停滞したままであったが、94年、金日成が急逝した。97年には金日成の息子の金正日(1942~ )が共産党総書記となった。
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~~ お・し・ま・い ~~
今回の記事の画像の引用元
1.3.5枚目:手持ちの教科書をスキャン
2枚目 :ウィキペディアより
4枚目 :ウィキペディアサイトをキャプチャ
前の記事) ⑩~「朝鮮共和国から分立-そして朝鮮戦争」
目次) 朝鮮半島史
False Gallery of ATTACK ON TITAN ①
とりあえずつくってみた編
有名なミュージカルで映画化もされた【アニーよ銃をとれ Annie Get Your Gun】を連想
プロ野球編
エースの起用法をめぐって激しく対立しているようです。
□のなかにはお好きな球団名をいれてください。アストロ球団も可
声優さんリスペクト編
桐灰(キ・リウァイ)のカイロを知らない方は→http://www.kiribai.co.jp/
②へ続く
False Gallery of ATTACK ON TITAN ②
EXIT
False Gallery of ATTACK ON TITAN ②
痴話喧嘩編
両方とも信じてはいけない言葉の上位常連です。シラを切りとおしましょう。KILLられますよ。
だからといって売り言葉に買い言葉というのももよくありません。犬も喰いません。
↓ リコさんにこんな台詞を言わせてしまう前に、オトナの対応で折れて謝りましょう。
今日はいい夫婦の日ですよ。
そして男はギャンブルに溺れていく・・・・
雰囲気が似てませんか??
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①はこちら
False Gallery of ATTACK ON TITAN ①
EXIT
12月8日は、真珠湾攻撃から72周年
毎年この日付に合わせてアップし直している記事です。
「前に読んだよ!」という方はスルーしちゃってください。
真珠湾攻撃
(英語:ATTCK ON PEARL HARBOR 日本時間1941年12月8日未明、ハワイ時間12月7日)
は、休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃である。
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詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。私は教師ではありません。教員免許も持ってません。趣味で所有しております。
450頁~451頁
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日本は1941(昭和16)年9月6日の御前会議で、もし日米交渉で10月上旬までに日本の要求が通らないときは、米・英両国と開戦を決意するという方針(帝国国策遂行要領)を決定した。
はじめは開戦に消極的だった海軍も、このころにはしだいに陸軍の強硬策に同調するようになっていた。
日本側の要求は、
①米・英の日中戦争への不介入、
②米・英は極東において日本の国防の脅威になるような行動に出ないこと、
③米・英は日本の物資獲得に協力すること、
であったが、アメリカ側は日本軍の中国・仏印からの撤退、日独伊三国同盟の事実上の空文化を強く主張し、交渉は全く行き詰った。
筆者・注)対日経済封鎖であるABCD包囲網は8月に実施された。
1941(昭和16)年10月半ばになり、近衛首相はなお開戦をためらい、中国からの撤兵問題ではアメリカに譲歩しても、日米交渉を継続しようとしたが、陸軍大臣の東条英機(1884~1948)は撤兵に強く反対し、交渉打ち切りを主張して譲らず、ついに第3次近衛内閣は総辞職した。
そのあとを受けて、東条英機が木戸幸一(1889~1977)内大臣ら重臣会議の推薦によって首相に任命され、陸軍大臣を兼任した。組閣に際して9月6日の再検討という天皇の意向を伝えられ、東条はその再検討を進めた。
その結果、東条英機内閣のもとで、政府・軍部の最高首脳を集めて開かれた11月1~2日の大本営・政府連絡会議で、開戦準備と対米交渉を並行して進めるが、12月1日までに交渉が妥結しなければ、対米英開戦することを改めて決定した(正式決定は11月5日の御前会議)。
このころになると、アメリカも日本の南方進出が続く以上、戦争は不可避と考え、11月26日に、
①日本軍の中国・仏印からの全面撤兵、
②三国同盟の空文化、
③国民政府(重慶政府=蒋介石政権)以外の政権の否認、
などを要求した覚書(ハル=ノート)を日本側に提示した。
これは、満州事変以来の日本の対外政策をほとんど全面的に否定しており、これまでのアメリカの対日提案のなかで、もっとも強硬なものであった。
ハル=ノートをアメリカの最後通牒とみなした日本は、12月1日の御前会議で最終的に米・英両国との開戦を決定した。
そして、1941(昭和16)年12月8日、日本陸軍はイギリス領マレー半島に(一部の日本軍はタイ領に)上陸し、海軍はアメリカ海軍の重要基地であるハワイの真珠湾を攻撃するなど、日本は東南アジア・太平洋地域で軍事行動を開始し、アメリカ・イギリスに宣戦を布告した。
ここに太平洋戦争がはじまり、3日後ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦を布告したので、第二次世界大戦はアジア・太平洋地域とヨーロッパ地域を戦場とする空前の大戦争に発展したのである。
451頁欄外に記載)アメリカ・イギリスは、日本の対米英宣戦布告後、まもなく日本に対して宣戦を布告した。また1941(昭和16)年12月9日、中国の国民政府も、対日・独・伊に宣戦を布告し、翌年1月、タイが日本側に立って米・英に宣戦を布告した。
ちょっと休憩しましょうか?
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では休憩中に、この映像をごらんください。15分です。
~映画~ 「凛として愛」からダイジェスト版
映画全編はこちらをどうぞ(平成14年制作・泉水隆一監督・1:07:24)↓
http://youtu.be/CpCXzX55bJE
この映画は中華人民共和国と大韓民国の強い圧力によって僅か二日で公開を打ち切られました。
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452頁~参考
日本占領下の東南アジア
日本軍は占領地に軍政を敷いた。地域により異なるが、戦争初期には、日本軍は欧米諸国の植民地支配からの解放をもたらすものとして、しばしば現地で歓迎を受け、日本も旧宗主国に対する現地住民の民族運動を支援した。
例えば、ビルマ人による独立軍、シンガポールなどで日本軍の捕虜となったインド人兵士によるインド国民軍が組織され、日本軍とともにイギリス軍と戦った。日本は1943(昭和18)年ビルマ・フィリピンの独立を認め、イギリスからの独立をめざすインド仮政府を承認した。
しかし、何よりも優先されたのは、日本軍の軍事上の必要だった。日本の東南アジア占領の主な目的は、石油。ゴム・ボーキサイトなど重要軍需資源の獲得にあり、そのための資源の略奪的調達は、現地の経済を混乱させた。
また、独立を認めた地域でも、日本軍が実権を握り、住民の歴史・文化・生活様式などを無視した神社崇拝や天皇崇拝の強要、日本語の学習、土木工事への強制就労、集会の禁止などが住民の反発を呼んだ。
とりわけシンガポールでは多数の中国系住民を反日活動の容疑で処刑し(シンガポール華僑虐殺事件)、フィリピンでも数々の残虐行為があったため、これらの地域では、抗日の動きが早くから強かった。こうして戦局の悪化に伴い、日本軍は各地で住民の抵抗運動に悩まされたのである。
筆者・注)
「しかし」以降の文章は理屈がオカシイ。シンガポールの華僑は中華系だから反日で当然。フィリピンは元アメリカの植民地ですから、アメリカべったりな利権もちのフィリピン人もおったでしょう。
このふたつの事例だけをとりあげて、東南アジア全体で反日の機運が高まったみたいな誘導は、意図的で悪意のある記述の仕方だと思います。
欧米植民地の東南アジアの人々に、民族自決や欧米人との戦い方や最新の産業技術などを教えたのは間違いなく日本人です。だから彼らは親日なのでしょう。独立を守っていたタイは日本側について第2次世界大戦に参戦しています。
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【永遠の0】大ヒット祈願!!「太平洋戦争要図」
今週末にこの邦画が公開されます。
公開間際になって、あわてて原作を読みました。
600頁近くもある太い本でしたが、文章は読みやすくフォントも大きいので、思っていたよりも楽に読めました。泣けますよ~~(;O;)
映画公式サイト ⇒ http://www.eienno-zero.jp/index.html
原作の小説を「この図を参照しながら読めたらよかったなあ」
と読み終えてから思ったので、手持ちの教科書から探し出して貼ります。
<詳説日本史研究454頁より>
画像のお持ち帰りはご自由にどうぞです。
太平洋戦争ではなく大東亜戦争だというツッコミは山川出版社にどぞ
小説を読んでの筆者の感想です。
多くの日本人の方に読んでほしい小説でした。
映画も多くの日本人の方に見てほしい思います(まだ見てないが)。
高い確率で号泣モノの映画になっているかと思いますので、
準備と覚悟をもって、映画館に足を運ばれたほうがよろしいでしょう。
~~~おしまい~~~