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Channel:  Egi Shun,s BLOG~歴史教科書から探る史実探訪
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朝鮮半島近現代史研究⑧~「韓国併合と黄禍論」

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このあたりからは私なんかよりもはるかに詳しい方がたくさんいらっしゃるので、もう教科書の記述を書き起こすだけにしていきます。いいかげん早く終わりたい!!(笑)。この記事含めてあと4回で終わり。

詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし

 ↑高校教師用の教科書です。
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367~368頁本文
【韓国併合】
日露戦争の勝利によって日本の大陸進出は本格化した。すでに日露戦争中の1904(明治37)年8月に日本は韓国と第一次日韓協約を結び、日本人顧問を派遣して韓国の財政と外交に介入した。翌1905年には、アメリカとの間に桂-タフト協定を取り交わし、日本の韓国、アメリカのフィリピンに対する指導権を相互に確認しあった。

ついで、戦後の1905(明治38)年11月には、第二次日韓協約(韓国保護協約)を結んで日本は韓国の外交権を握り、漢城(現・ソウル)に韓国総督府をおき、伊藤博文が初代総監となって総監政治をはじめた。こうして日本は韓国を保護国とした。
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これに対して韓国は1907(明治40)年6月、ハーグの万国博覧会に皇帝の密使を送って抗議したが、いれられなかった(ハーグ密使事件)。
(筆者注:相手にされるわけないだろw)
日本政府はこの事件をきっかけに、同年7月韓国皇帝(高宗)を退位させ、第三次日韓協約を結んで、その内政権を奪い、韓国の軍隊を解散させた。

韓国内にはこれに反対して反日武装闘争の気運が活発化し、解散された軍隊も加わり、義兵運動が高まったが、日本は軍隊を出動させてその鎮圧にあたった。
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1909(明治42)年10月、伊藤博文がハルビン(満州)で韓国の民族活動家安重根(1879~1910)に暗殺されると、日本は翌年1910(明治43)年8月、ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし、その名称を朝鮮に、漢城を京城と改めて天皇直属の朝鮮総督府をおいてその統治にあたった。

朝鮮総督には武官が任命され、そのもとで総督府は地税の整理土地調査事業をすすめ、1918(大正7)年に完了した。

その結果、日本人地主の土地所有が拡大した反面、朝鮮の小作農で没落する者が多くなり、その一部の人々は仕事を求めて日本に移住した。
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1908(明治41)年に韓国の拓殖事業を推進するための国策会社として東洋拓殖会社が設立され、農業経営や灌漑・金融事業を行った。

また、日清戦争後から日本の手によって建設が進められていた京釜鉄道(京城-釜山間)が、1905(明治38)年に完成し、産業の発達と軍事輸送に大きな役割を果たした。

<画像上:ハーグ密使(李儁、李相卨、李瑋鍾)  画像中:安重根  画像下:東洋拓殖株式会社京城支店> 
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「ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし」
 

??? なにこの意味不明な記述!!併合と植民地化は全く違うんだけど(ーー;)
併合して日本国になったんだから、武装解除と土地調査は当たり前。刀狩りと検地だよ。
似た例にハワイがあるけど「アメリカはハワイ王国を併合し植民地とし」とは詳説世界史に書いてないぞw
そして、ハワイは好カードで朝鮮半島はババだったorz (ーー゛)

<海野福寿『韓国併合』1995 岩波新書、糟谷憲一『朝鮮の近代』世界史リブレット43 など>の記述↓

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      出典サイト→ http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo14_3.htm


アゴラの池田信夫氏が、タイムリーな事に詳しく分かりやすく『日韓併合』にブログで書いておられますので、よかったらご参考にどうぞ → http://agora-web.jp/archives/1565597.html
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368~369頁本文
【黄禍論とドル外交】
日本の強国化、とくに満州への勢力拡大は、日本に対する列強の警戒感を高め、黄禍論(Yellow Peril)①の矛先が主として日本に向けられるようになった。

<368頁欄外>
①黄色人種が白人をアジアから駆逐しようとするのではないかと警戒し、ヨーロッパ諸国はキリスト教文明を守るためにこれと対決すべきであるとする主張で、すでに日清戦争直後から、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世らが盛んに唱えていた。 くわしくは→黄禍論
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アメリカが日露戦争で日本に好意的立場をとり講和を仲介したのは、ロシアが満州を独占的に支配することを警戒したためであったが、戦後、日本の南満州への進出が盛んになると、満州の鉄道に関心をもつアメリカとの対立が芽生え始めた。

すでに日露講和条約締結直後の1905(明治38)年、アメリカの鉄道企業家ハリマン(Harriman 1848~1909)は長春・旅順間の鉄道を日米共同経営とすることを提案したが、日本政府はこれを拒否した。

その後も、アメリカは満州における門戸開放を唱えて、1909(明治42)国務長官ノックスが、満州における列国の鉄道権益を清国に返還させ、これを列国の共同管理のもとにおくこと(満州の鉄道中立化)を提案したが、日本とロシアがこれに反対して、この提案は実現しなかった。
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 $ Egi Shun,s  BLOGまた日露戦争のころからアメリカ・カナダなどで、日本人移民排斥運動が労働組合などを中心に活発に展開されるようになり、1906(明治39)年にはサンフランシスコで、日本人が公立学校への通学を禁止される事件(日本人学童隔離問題)がおこった。

また、1913(大正2)年にはカリフォルニア州で、日本人(アメリカ市民たり得ない外国人)の土地所有を禁止する法律が制定されるなど、日本人移民に対する圧力も強まってきた。

日露の協調が進むと、アメリカは1910(明治43)年、5000万ドルの借款を清国に与え、イギリス・ドイツ・フランスをさそって四国借款団を組織し、豊富な資金に頼っていわゆる「ドル外交」を進めた。

こうして東アジアにおける情勢は日米の対立をはらんでしだいに新しい様相を示していくのである。
 
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1911(明治44)年の辛亥革命で清朝が倒されたので借款は成立していたものの実行はされなかったようです。

アメリカってなんなん?(--〆)   ~~次回へ続く~~

今回の記事の画像の引用元
1.2枚目:ウイキペディアより
4枚目 :ウェブサイトをキャプチャ
5枚目 :http://heiwa.yomitan.jp/4/3207.html
その他 :手持ちの教科書をスキャン


もっと詳しく知りたい方は、ウイキペディアでお勉強できます。
wikipedia.org/wiki/韓国併合
wikipedia.org/wiki/ハワイ併合
wikipedia.org/wiki/ドル外交
wikipedia.org/wiki/門戸開放

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         尺があまったので、してやったりのロシアンの画像








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