毎年お正月には「皇紀」「皇室」関連の記事を書かせていただいています。
一昨年の記事 ↓
今年は皇紀2672年ってのは恥ずかしいから公の場では言わないでほしい
昨年の記事 ↓
歴史教科書における‘古代日本の天皇’の記載について
ということで、今年は皇紀2674年でございます。おめでとうございます。
日本国は共和制か君主制(立憲君主制)か?尋ねられたらどうお答えになりますか?
GHQ占領憲法(日本国憲法)によって相当にファジー(曖昧)にされてますから分かりにくいです。他の国と違って説明が必要です。正式国名も『日本国』という曖昧さですし。
日本国には大統領がいないから『立憲君主制(実質)』です。大統領というのは君主制(王制)を廃して共和制に移行した国の国王の代わりです。したがって大統領は国家元首です。国家元首とは国王もしくは大統領なのです。
<立憲君主制の国・くわしくはウイキさんでwikipedia.org/wiki/立憲君主制>
大統領が国家首脳をやってる共和国(フランス・ロシアなど)もあれば、ドイツやイタリアのように大統領は名誉職な共和国もあります。
<ちなみにサウジアラビア王国などイスラム王国はwikipedia.org/wiki/絶対君主制です>
ドイツやイタリアでは、首相が国家首脳をやってます。
ドイツはメルケルのおばさん、イタリアはベルルスコーニじゃなくて、誰だっけ?
エンリコ・レッタさんだってさ。知らんなあw
アメリカは侵略地に近代国家をぶちたてたので王制を廃したわけではなく最初から大統領制です。首相は居ません。植民地が本国から独立した国はいきなり大統領制です。
オーストラリアやカナダは英連邦の一員なので今でも国家元首はエリザベス女王です。南アフリカは英連邦を外れて加盟国に降格したので共和制になりました。
首相というのは首席宰相の略ですから、国家元首ではありません。代行です。
では、なぜ日本の国家元首(実質)は国王ではなく「天皇」という語を使ったのか?
歴史教科書の記述から探ってみましょう。
詳説日本史研究(山川出版社 2000年版) より書き起こし
↑高校教師用の教科書です。
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58頁本文
壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのおうじ天武天皇)は、673年に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位した。
それまで「大王(おおきみ)」とされてきた君主号にかわるものとして、「天皇」号が制定されたのも、天武朝であったと考えられる。
中国の「皇帝」と対置し、中国皇帝の柵封を受けた新羅の「国王」よりも優位に立つ、「東夷の小帝国」の君主として、みずからを位置づけようとしたのである。
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簡単な図にしました。画像引用元はここです。日本という国号もこの時代に制定されました。
中華皇帝というのは柵封している国(属国)の王の任命権を持っていました。その権限への対抗策なんですね。中華皇帝とは西洋のエンペラーとも実質違うものらしいです。ただ英訳では天皇も皇帝もエンペラーって訳すようでw
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58頁本文
天武天皇は、大臣をおかず、皇后(天智天皇の皇女の鵜野皇女・のちの持統天皇)や、草壁皇子(662~689)・大津皇子(663~686)・高市皇子(654~696)らの皇子、諸王などの皇族・皇親を重く用いることによって、律令体制国家の早急な建設をめざした。
また、律令制支配を浸透させるために頻繁に各地方に派遣された使節の統括者にも、諸王が任命された。
一方、氏族層(筆者注:藤原氏など貴族のこと)は、唐・新羅戦争という激動が続く東アジア情勢のなか、律令国家の官僚の出身母体になることこそ、支配者層として生き残っていくことのできる唯一の道であることを悟り、皇族や皇親が主導する政治体制の下位に自らを位置付けることに妥協した。
天武朝に始まり、律令国家体制の成立まで続いたこの政治体制を皇親政治という。
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天皇という言葉についても同じ頁に書いてあります。スキャンしたのを貼っておきます。
クリックで拡大↓してお読みください。「天皇」という語は、道教の最高神なんですねえ。
『道教(どうきょう、拼音: Dàojiào)は、中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。』なるほどお~
ところで、中華帝国と対等であろうとした日本の為政者は天武が最初ではありません。『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々』と隋の皇帝・煬帝に宛てた国書があるではありませんか?
煬帝は「蛮夷の書、無礼なる有らば、復た以て聞する勿れ」と激オコだったとか。
(出典:『隋書・東夷伝倭国条』、原漢文)推古15(607)年の出来事と書かれてます。実際には中華帝国と対等の外交をしようとしたわけではなく、中華帝国の柵封を受けている朝鮮諸国(新羅・百済)への優位性を確立するのが目的だったようです。
煬帝も激オコはポーズだったようで、その翌年に裴世清(はいせいせい、生没年不明)を大和朝廷に国使として遣わしています。この国使派遣は、隋と抗戦中の高句麗が大和朝廷と結び付くのを恐れたためと推測されています。いやいや外交ってほんまに昔からタイヘンですわ。腹の探り合い・化かし合い。
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上段が『聖徳太子』のおはなしで、下段が『持統天皇』のおはなしです。
うちのブログはステマではありません。本気でお薦めなものを紹介しているだけ。
ではでは(@^^)/~~~
また来年のお正月に『皇紀』関連の記事を書きます。なんと最終回の予定です。
~~~~ お し ま い ~~~~
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はじめて天皇号を使用した天皇は誰ですか?
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